08読書日記111冊目 「憲法と平和を問いなおす」長谷部恭男

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

東大の憲法学の教授、長谷部先生。今年に入ってこの人の本を読むのは三冊目。実は積読にもう一冊あったりもする。新書の出来としては、そして議論の緻密さとしては岩波新書憲法とは何か』のほうが優れていると思う。

長谷部憲法学において、キーワードはいくつかある。まずは立憲主義である。立憲主義とは、比較不能な価値観(長谷部はincommensurabilityの訳語として「比較不能性」と訳している)をもつ人々らが、自らの価値観を一旦私的領域にとどめておいて、公的領域においてはそのような価値観に立ち入らない議論をすることにしよう、という政治手段である。この立憲主義に基づいて造られているのが、現行の硬性憲法であるところの憲法典である。ハンナ・アレントが看破したように(長谷部自身はアレンとの活動的人間という概念を退けているのだが)、constitutionというのは「憲法」=構成=国家ということなのであって、立憲主義を維持するための土台となる部分が憲法なのだ、ということになる。

従来の戦後民主主義観でいくならば、憲法について議論して民主主義的プロセスを経た上で憲法が改正されるべきだ、と行くべきところを、この人はそれを退ける。つまり、民主主義的プロセスにおいては根本的な問題すなわち憲法などを扱うべきではないとするのである。この議論は極めて面白いが冷淡にも響く。長谷部に言わせれば民主主義的プロセスにおいて決定されてよいものとは、きわめて煩瑣なこと(chaff)のみである。民主主義的プロセスはいわば完璧なものではなく、ハーバーマスロールズのように合理的理性がある一つの「正解」に収斂していくということではなくて、第一「正解」などはありはしないのである。長谷部の整理で言えば、民主主義的プロセスにはプロセスの正当性に依拠するものと、結果の正当性に依拠する論拠がある。しかし前者は結果に対して盲目であるのに対し、後者は結果の正当性が実在しないことに盲目であるのだ。

彼が言わんとしているのは、つまり、こういうことである。民主主義的プロセスは瑣末なこと、つまりどちらでも良いと考えうるようなこと、すなわち偶有的なことだけにあてはめられるべきで、それ以外の非偶有的なことがらについて簡単にそのプロセスを通じて変革できるようなことがあってはならない。長谷部は本書では詳しく述べないが、実際のところ、憲法の正当性は憲法学者の解釈によって審議されるべきものであり、大衆がその議論に参加するのは良いとして、専門的な決定過程にまで口を挟むな、ということなのである。

長谷部は本書では一貫してアレント―civic humanismラインを批判している。つまり、公的な場で自らの卓越性に基づいて活動する人間を作り出すための「民主主義」を批判している。それは、自己撞着的ではないのか、自己目的化してはいないか、というのが彼の意見である。ギリシア的な「善き生き方」は立憲主義的な相対性に合致しない、というのだ。確かにそれもそうだとは思わされるが、しかし制度的な問題として、現代社会が人びとを疎外し始めているということを考えると、自らが社会の成員であると感じられるような制度として陪審員制のような討議参加も悪くはないのではないか、とも考える。確かに、国のために一身を捧げる徳、というのは変な気がするではあるが。

206p
総計32292p