08読書日記115冊目 「アナーキー・国家・ユートピア」R.ノージック

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

合宿でハイエクを読み、リバタリアニズムの代表論者であるノージックを冬学期に読んだ。

リバタリアニズムとは、ロック的な所有権のみを正当な権利として認めている。つまり、?自らの身体の所有権 ?自らの身体による労働の産物に対する権利 の二点である。本書では自然状態からいかにして「最小国家」が成立するのか、そしてどのようにして「最小国家」は「拡大国家」になりえないか、ということを論理的に検証する。ノージックの結論だけを先取りすれば、「最小国家(=夜警国家)」のみが正当性を持つ。無政府状態では身体の自己所有権を擁護・実践することについて非効率であるし、拡大国家ではそれによって行われるであろう分配政策は正当性を持たない。リバタリアニズム森村進の分類を用いて表現するならば、?経済的に自由 ?人格的に自由 なのである(?のみは保守、?のみはリベラルという分類)。本書は、ロールズの「正義論」が「拡大国家」を正当化するのに対して、それに対して精密に反駁を加えている。

彼の論理として、重要な概念として、歴史原理と結果状態原理というものがある。前者は論理の手続きが正当であるならば結論についても正当である、というもの。後者は論理の手続きについては問わず、結果状態が正当であることに着眼する。歴史原理とは、身体の自己所有権そのものの論理構造である。つまり、個人の身体に権利の権原をおき、そこから派生するものは他者の権利を侵さない限り、個人の行為を正当だとみなすものである。一方、後者は配分的正義の論理構造である。結果状態について平等であることを求める配分的正義は、人々がいったん「無知のヴェール」を被るとすれば――すなわち手続き(=各人の身体状態=資産や身分)については問わないならば――二つの原理に合意するということを根拠にしているのだ。ノージックはこのような手続き(=各人の身体)については「無知」になるとする結果状態原理であるところの配分的正義に反駁する。

リバタリアニズムは、ある意味で新保守主義ネオコン)が推進する市場原理主義の梃子となってきたことは疑いがない。ノージックがいうように、ロック的な身体の自己所有権については認めざるを得ないとしても、「生まれの差」というものは歴然としている。それは少なくとも是正される必要があるのではないか。つまり、配分的正義が論理的に突き詰めていけばほとんど全体主義と等しいとしたとして、「生まれの差」が正当な手続きによって「圧倒的な生活の差」につながることも同じである。少なくともセーフティ・ネットのようなものは保証されねばならないし、労働の機会も保証されねばならないだろう。

ただ、ラディカルな議論を振りかざして、今までの固定観念を覆していくノージックの哲学的探求は面白い。例えば、身体の自己所有権の売買についてであったり、恋愛の自由性であったり、児童の権利についてである。民主主義と奴隷の違い、というびっくりするようなことも言ったりする。本書を一人で読み通すことはできないと思われるので、ゼミで読めたのはとてもよかった。ただ、賢すぎるノージックについていくのは大変であったが。

540p
総計33792p