08読書日記116冊目 「増補 想像の共同体」B.アンダーソン

ナショナリズム分析の古典的叢書。明快な論理展開と翻訳であって、非常に読みやすい。値段も安くて嬉しい。古本でかえば1200円であった。

いかにしてナショナリズム国民主義が近代の夜明けと共に出現したのか、ということを論じている。歴史的に見れば近代の萌芽、すなわち封建制の解体から帝国主義の時代に至る時代にナショナリズムは息吹き始めた。それは宗教からの解放(脱魔術化近代)を嚆矢にし、聖なる言葉であり、神聖かつ唯一の言葉であったラテン語が俗語に取って代わられ、神の時間意識であるところの即時的現在における過去と未来の同居する「メシア的時間」が「均質で同質な」時計と暦によって測られる近代的時間に推移したときににあらわれ始める。これらを招来したのは出版資本主義である。出版資本主義は小説と新聞を産むことによって、俗語を台頭させ、小説的同時性を機能させる。この小説と新聞によって、そこで現されるラテン語ではない俗語を読む人々を「想像させる」のである。つまり、ここに「想像の共同体」の萌芽が見られる。国民はこうした出版物を通じて獲得される一つのイメージなのである。資本主義とコミュニケーション技術の爆発的進歩と、唯一性と真逆の多様性を持つ諸言語の宿命性が新しい「想像の共同体」を可能にした。

このように複製可能な風に印刷された出版物は、何度も他国のナショナリズム的勃興を誘発する。つまり当初おこなわれた「国民国家」の形成としてのイギリス革命が、あるいはフランス革命が、その後あちこちで複製可能になるのである。植民地国家においては、そこのエリート階級であるクレオールたちは宗主国言語と現地言語の二言語を持ち、宗主国へと「巡礼」するという「共同の」経験を持つ。かつての宗教的巡礼の際に言葉も肌の色も違えど同じ神に礼拝するという共同の経験が宗教的紐帯を堅牢にしたのと同じことがここで見られる。こうした革命や独立の「モデュール化」とクレオールに見られる独特の共同体験によって、植民地国における国民国家形成が促進される。

また、封建制絶対君主が死に絶えてその後に現れた「帝国」は、巨大な官僚機構と市場経済を持った。その巨大な「帝国」を同質的に組織し支配の技術学をつくりあげようとする言説はアンダーソンによれば「公定ナショナリズム」と呼ばれる。「公定ナショナリズム」とは結局、俗世界からの、下からのナショナリズムなのではなく、王権、貴族による上からの応戦であった。つまり、多数の民衆の想像の共同体の現れによって周辺化されそうになる王権貴族の「帝国」の権威を維持するための戦略が「公定ナショナリズム」である。それは国民と王国の矛盾を隠蔽し、帝国内を同質的均一性で覆い尽くす。

植民地国家はこのような公定ナショナリズムの言説から、逆説的に自らの「同質性」を規定してきた。それはクレオールたちの出版資本主義からの二重言語の普及であり、物理的移動の革新による「巡礼」の成果であり、なによりも官僚的教育制度の賜物であった。読み書きを可能にする教育の普及によって、言語が恣意的に作り出され、宗主国/植民地国の分類が出来上がる。数ある現地語の中から宗主国家によって「現地語」として恣意的に選び出され規定された言語は、当地の人々の差異を圧殺し共有されるべき経験として造成する。特定の連帯が構築されるのである。また、公定ナショナリズムの経験は「複製」され、植民地国家の権威を高めることに用いられる。

ナショナリズムがいかに新しいものであり、それがパセティクなものであるかを記述した本書は、明示的に言及されてはいないが確実にミシェル・フーコーの「知と権力」の理論に依拠していると思われる。「教育」、人口調査、地図、博物館が植民地経営においていかに権力によって発揮されたか、というくだりはまさしくそのものであろう。「国民」とはその期限を正確に定められぬ、という点で言語と似ている。そしてそれゆえに「自然」であるし、「自然」であるからこそ自らが積極的にコミットメントする――そのためにこそ自らを殺しても良いという――対象として現れるのである。「名もなき墓標」が示すのはまさしく「国民」という想像された共同概念であり、そこへ人々は自らを縛りつけることで欺瞞的にアイデンティティを形成しているのだ。

335p
総計34127p