09読書日記22冊目 『泣かない女はいない』長嶋有

泣かない女はいない (河出文庫)

泣かない女はいない (河出文庫)

濃密な文章で描写することは、意外に易しい。しかし、一方で簡潔で淡白な言葉で世界を描くことは意外に難しい。簡素な言葉は単に連ねられればいいというものではない。簡素な言葉が文学性を持つためには徹底的に詩的でなければいけない、それは異化されていなくてはいけない。もっと別の言葉で言えば、それが文体を持ってたち表れてくること、これがなければただの幼稚な文章になってしまう。簡素な文体が読者へ圧倒的に流れ込んでくるためには、その文体によって書かれなかった余情の部分が、言葉になりえない意味の位相で表現されねばならない。それができるのが、長嶋有である。

大江健三郎賞を受賞したとき、大江健三郎はこの作家のテクニィクを評して、「はてなの技法」と呼んだのであった(確かそうであった)。僕は長嶋有の『サイドカーに犬』しか読んだことが無くて、その「はてなの技法」にぴんと来なかったのではあるが、本作では確かに、「はてな」が小説の語りを推進させる。様々に「はてなの技法」は駆使されているが、それが決定的であるのはpp100の「心変わりを告げるのがためらわれる、眩しいようなふり方だ。」というところである。それまでただ恋人と食事に行くのだと読み進めてきた読者にとって、この一文は「はてな」というよりはむしろ、睦美の不穏な決心を想起させ、彼女の並々ならぬ意志が表現されてこなかったこと、むしろその表現されてこなかったからこそその滾る決意が強く想像される。もっと別の様態では、"No Woman No Cry"の解釈をめぐってである。果たして樋川さんが「泣かない女はいない」という意訳を意図的にしていたのかどうか、という「はてな」は読者にとっても睦美にとっても取り残されたまま余情として機能している(『センスなし』ではG線上のアリアは、結局どこからなっているのか分からないままである)。

ということはさておき、俺も実のところ、首をしめてくれと頼んだことがある、ということだけで、この小説が好きな理由になりうる。直ぐ読めるのに、直ぐ分かった気になれない小説だと思う。

180p
総計7644p