09読書日記29冊目 『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

ヴェイユは、34才で死んでいる。若すぎる死である、が、彼女のような韜晦で神秘主義的な思索は、若いときにしかできないのかもしれない。

自由な社会、あるいは抑圧のない社会をどのように構想すればいいのか。近代社会と、資本主義的社会とは同時期に出現しており、そこでは新たな「抑圧」が生じていると論じられる。現代とは「未来を奪われた時代」であり、来るべきものは「希望ではなく苦悩なのである。」そのような時代において、真に<抑圧>から自由である人間は「すべてを問い直す覚悟」を持たないといけない。

科学的進歩は、もはや生産力の解放において正当化されている。マルクスは生産力の増大がヘーゲル的な弁証法的展開によって自然になると述べているが、マルクスにとって唯物論において人間の意志が事物の意志と合一するという宗教的な望みを抱いていたことになる。ヴェイユはそのような宗教的な唯物論を徹底的に廃し、唯物論を純粋化していく。マルクスは自らの歴史哲学において「人間は自己の歴史を作る、ただし限定された条件下において」と述べたが、ヴェイユによればマルクスはそのような宗教的な唯物論を望んでいるだけであり、物質的な変革を思考したマルクスの後を受けて、資産様式の徹底的な研究をしなければならない。

マルクスは資本主義社会において、自動運動のように展開していく資本の運動が
労働者を搾取し続けている、と論じ、その源泉を生産様式に見出した。近代において特有の生産様式とはもちろん大工業である。大工業、しかもそれが過度に進んだ機械設備において「生きる労働」が「死せる労働」に従属するのである。マルクスはそのような労働者の資本家に対する従属を、私的所有の体制に基づくものであるとみなしたが、ヴェイユは工業の構造自体に従属関係を見出すのだ。大工業における労働とは、社会的な抑圧の縮図に過ぎない。つまり、大工業における究極的な分業体制こそが、専門に分化する社会を象徴する一形態である。政治は官僚によって専門化され、科学は科学人によって支配されている。このような専門分化してしまった社会においては、調整者によって遂行者が隷属してしまうことになる。

近代的な合理化が全社会を貫徹するにいたって、人間の絆が回復されるには、限定/限界としての理想として自由な社会を構成しなければならない。「自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期が来ている」。ヴェイユは、専門分化し、複雑性を極める社会を方法的な考察を積み重ね、協働の可能性に賭ける。協働こそが、逃れがたい権力の闘争を縮減し、誰もがみな同じ障碍に対処する社会の機動力となる。これは、まさしくユートピアの構想に他ならない。しかしながら、ユートピアを「夢想」するのではなしに、現実社会の「限定/限界」としていわば批判理論的にそれを構想することこそが、真に抑圧から解放される方途でもあるのだ。

「現に生きている世代は、人類史上に連綿と続くすべての世代のなかで、おそらく想像上では最大の責任を、現実的には最小の責任を担うことになろう。この状況は、ひとたび十全に理解されたならば、驚嘆すべき精神の自由を与えてくれる」

この言葉が重くのしかかる。

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総計9684p