09読書日記40冊目 『自由』齋藤純一

自由 (思考のフロンティア)

自由 (思考のフロンティア)

岩波の思想のフロンティアシリーズは(横書きなのがちょっとネックだが)いいものが多い。齋藤純一はほかにも『公共性』を書いていたりして、完全に僕の興味の範疇とかぶる。

本書は「自由」について思想史を紐解きながら、現在の「自由」がいかに「不自由」であるか、ということにも焦点をあわせて議論している。齋藤によれば、

自由とは、人々が、自己/他者/社会の資源を用いて、達成・享受するに値すると自ら判断する事柄を達成・享受することができる、ということを意味する(ただし、他者の同様の自由と両立するかぎりでその自由は擁護される)。


と定義できる。この自由の概念は包括的なもので、いわゆる思想史的なリベラリズムの自由観ともマッチする。現在のリベラリズムのあり方として有名であり、様々な議論の準拠点となっているのは、バーリンの示した消極的自由であろう。彼が思想史的には全体主義国家・社会主義国家に対して、超個人主義を視野に置きつつも、私的な自己の隠れ家として消極的自由を擁護したことは、言うまでもない。しかし、現代になって、全体主義国家や社会主義国家はついえ、バーリンが示唆した当時のコンテクストは失われた。つまり、当時バーリンによれば優勢ではなかったはずの超個人主義が、もはや優勢となってしまったのだ。しかも超個人主義liberal ultra-individualism)は、個人の選好というよりかは、国家や社会によって倫理規範的に推し進められる「自己責任」の論理を稼動させている。最小国家を思考するリバタリアニズムは、保守的な意味合いを付与された「新自由主義」「新保守主義」とともに世界を席巻している。しかし、果たして、本当に現代は自由なのだろうか。国家による私的領域への介入が不在だとは言え、それはむしろ私的領域へと倫理規範的影響を持たないことを正当な理由とした、国家の役割の変異を表しているのではないか。つまり、国家/社会/市場において、それぞれが私的所有の原則に基づいた交換原理のみを貫くこと、これこそが自由の名を語ってまかり通っている。本来政治的=公共的であるはずの議論が、「経済」という「科学」に基づくと言い訳しながら、市場における均衡だけを目的化しているのである。

現代社会を一瞥してすぐ理解できるように、様々な「不自由」が現れている。9.11テロのような過激なイスラム原理主義に世界が直面したこと、金融恐慌が踏破していること、自己責任もとに推し進められる雇用体制の変化、政治世界から民衆が撤退し本来あるべき公共的な議論が成り立たないこと。これらは大まかには「自由の不在」として位置づけることができるだろう。私的領域における自由=消極的自由こそを最善のものだとして推し進めてきた思想史的議論が見直されている時期には間違いがない。

優れたブックリストとしても有益である。

143p
総計12953p