09読書日記42冊目 『公共性』齋藤純一

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

岩波フロンティアシリーズで同じ著者が書いている『自由』とあわせて読むと、著者がいかに自由と公共性の条件を、<他者>の存在に賭けているのかが分かる。

他者とは、自らの予期を裏切るwhoの位相を伴って現れるものであり、自分とはまったく違った「世界」において「はじまる」ところのものである。このようなアレントの認識を引き継ぎながら、ハーバーマスの公共性についての合意限定を振り払いつつ、現代社会をも幅広く捉えて、本書は公共性を論じている。共和主義的な公共性については、コミュニタリアニズムと一緒くたにされてしまっているのがネックだとは思うが、親密圏にまで正しく目配りした議論で、公共性について学び始めるには最も適しているように思われる。


ただ、国家と公共性のあり方を、ただ対立的に描いている点は、柄谷行人も指摘しているように、国家の存在理由を軽視しているように思われる。国家がいずれ揚棄されるものであるという理想論はおそらく成り立たず、その意味で公共性が国家に対立するというよりはむしろ公共性が持つ批判的公開性に準拠しながら、国家間の区分を曖昧にしていくよりほかはないだろう。


また、共和主義的観点に触れている箇所が少なく、それと同時に、現代における操作的な大衆、ただ観客としてしか機能しない大衆をどのように私的領域から「公共性」に復帰させるのか、という問題についてはあまり問題視されていない。さらに言えば、親密圏さえ解体してしまっているかのような状況にあって、どのように親密圏を基礎とした公共性を取り戻すのか、ということもまだまだ考えなければいけない。


アレントの「現われの空間」の複数性の概念に依拠しすぎた議論であり、果たして本当に<他者>が公共空間に有象無象状態で現れたときに、どのようにして秩序を維持していくのか、ということも疑問に感じる。それはたとえば、同性愛者のパフォーマンスについてであるとか、<マナーがなっていない>と規範化された身体から考えられる<野蛮な>人間(それは若者に多く見られる、と一般的に言われている)だとかをどうとらえるのか。「現われ」た<他者性>が議論に回収されなければ、その現れの空間はタダ無秩序なものに終わってしまう可能性もある。


120p
総計13453p