09読書日記45冊目 "Democracy's Discontent -- America in seacrch of a public philosophy" Michael Sandel

Democracy's Discontent: America in Search of a Public Philosophy

Democracy's Discontent: America in Search of a Public Philosophy

マイケル・サンデルハーバード大学政治学部の教授で、コミュニタリアニズムの強力な理論家として知られている(日本での知名度はローティやロールズのそれに比べれば低いといわざるを得ない)。訳されている単著はまだ"Liberalism and the Limits of Justice"(最近になって新訳が出た)しかない。最近では、バイオエシックスについて積極的に発言している様子である。本書では、アメリカ合衆国の建国以来の「共和主義的伝統」がいかにして自由主義的議論によって弱められてきたか、そしてその結果いかなる"Democracy's Discontent"が噴出しているのか、ということを具体的歴史的事象を踏まえながら論じている。理論的な部分だけでなしに、歴史的文脈を踏まえて議論されるので、論脈はつかみやすい(が、具体的な歴史的傍証の部分の英語は知らない単語続出で困る)。ペーパーバックにして400ページの大著であり、初めて原書で読む専門書であったので、読了するのに二ヶ月くらいかかってしまった。なんしか、一ページ読むのに5〜6分かかるという遅読ぶり・・・。慣れが足りない。


現在の公共哲学というのは、ロックからカント、ミルを経てロールズに至る自由主義の流れを汲むものである。自由主義は人権と寛容を強調してきた。前者は、あらゆる人は平等に扱われるべきだ、というものである。そして、後者は前者を保障する為の指針だと言える。すなわち、個人の権利を保護するために、各人によって異なる特殊な善を括弧にくくり、各人に共通するものを議論しようとするプロジェクトが自由主義なのである。そこでは、個人に与えられている(自然)権が重要視され、特殊な善よりも権利が優先される。個人は自由に選択することができ、その選択の目的よりも、選択することができるという権利こそが保守されるべきだと、カント的な自由主義は述べる。このような議論の前提にあるのは、自我というものが伝統や習慣から本来的に自由で独立しており、そのような束縛から究極的に負荷のかからない(unencumbered)存在であるとする、自由主義的な自我像である。それゆえ、自由主義的な発想からは、政府の立場は、各人の選択が他者に危害を与えない限りにおいて(危害原理・ミル)、その選択には中立的(neutral)な構成体であり、介入しないようにするべきだ、ということが演繹される。


サンデルはそのような自由主義における政府の非干渉的な態度を「手続き共和国(procedural republic)」だ、つまり市民のあり方について口を挟まないものだと、批判する。各人が根本的に独立しており、自由であり、負荷のかかっていない存在だとみなす自我の捉え方においては、いったいどのようにして人々は選択するというのか。あらゆる先天的な価値から自由であるならば、人はいったいどのような行為を、どのような理由から選択することができるだろうか。サンデルは、こういった自由主義的な自我像を攻撃し、自我が歴史や習慣、コミュニティに埋め込まれているものであると論じていく。この本では、その<歴史>とは<アメリカ>である。


アメリカ>という歴史から乖離していると自由主義者が想定する自我は、簡単に経済的な必要性によって堕落してしまうのだ、とサンデルは主張する。サンデルによれば、アリストテレス以来アメリカ建国の精神にある時期まで、自由主義的自由とは違った自由のあり方が生き延びてきた。それは共和主義的自由の伝統である。共和主義的伝統では、市民は公共のことに関心を持たねばならず、自らの必要性から自由であることが求められ、他者への依存は堕落や腐敗とみなされてきた。市民的徳は共和主義的な政府によって涵養されねばならない。


コミュニタリアンは、自我というものを根本的に自由で負荷のない存在だとはみなさない。コミュニタリアニズムは、自我が生活圏内の価値に影響され、その紐帯の中で形成されていくと考える。価値中立的に肥大化していく合衆国政府はそのような自我を形成するコミュニティを合衆国全体に拡大するとともに、コミュニティの紐帯を解除し続けてきた。それゆえに本来的にコミュニティ内部で形成されるはずであった市民的徳は消滅してしまった。市民的徳を持った人物は、コミュニティの共同的な問題に対して関心を持ち、自らを市民として考える。そのような有徳の市民は、自由主義的な個人主義によって、ただ自分の選択を自身の経済的な必要性や自身の選好のみなす個人に帰してしまったのである。


参政権運動や、経済政策の長い議論を経て、共和主義的な自由の伝統は失われてしまったかのように見える。自由主義的政体であるところの手続き共和国は勝利を収めたかに見える。しかし、アメリカにあっては、治安の悪化、経済的格差の拡大などによって、自分の運命を自分で支配するという本来カントらの啓蒙主義者が前提にしてきた独立した自我も同時に消滅してしまったのである。巨大化し寡占化していく企業は市民を単なる労働者=消費者に変えてしまった。さらに言えば、現在的には、グローバル化していく世界の中で、人々は自分の思いもよらない悲劇をこうむりうる。個人は絶えず自らが関与し得ない外的な運命によって翻弄されている。


サンデルはそのような事態に対して、コミュニティの回復を訴える。コミュニティは一方で一律的な価値観を押し付ける偏狭な共同体にもなりえるが、その教育的効果は大きい。コミュニティにおいて涵養されるのは市民的徳である。人は様々なコミュニティに属しながら、それぞれのコミュニティの価値観が要請する価値の衝突を仲裁しつつ生きていかねばならない。コミュニティはネイション・ステイトより大きい場合もあれば小さい場合もあるが、様々なコミュニティにおいて個人はその内部の問題に関心を寄せ、そしてこの世界が多様であることを知る。巨大な資本の運動に抗していき、自らの生に対して自らが制御する可能性を持つことが、コミュニタリアンが目指す共和主義的な市民像である。多元的な価値世界を仲裁していきながら、自らが(地球という)世界に所属する市民であるということを自覚しながら、公共的な場に自らを参加させていくことをコミュニタリアニズムは称揚するのである。


最後になって、サンデルは上述のような理想ばかりを語るだけではない。コミュニティが分断され消滅していく近代の中で、多元的なコミュニティに属していることを自覚し、その価値を仲裁していくとされる有徳性を達成されることが難しいということも看破している。現代における市民的徳性は、一元的な価値だけしか認めない原理主義的な傾向と、価値が多元的すぎることによって自我が霧散していくという傾向に、絶えず攻撃される危険を持っているのである。前者は他者の価値世界を廃絶するであろう。後者は、マスメディアに扇動されるように形成される偽りの公共性を、自らの物語と欺瞞して満足し、真に公共的な関心を持たない。この二つの攻撃をいかにしてかわしていくのか、サンデルは明らかにしない。彼の議論はおおむね納得できるものであるし、コミュニタリアニズムをただ楽観的に叙述しているわけでもない。現代が抱える問題点をほとんど余すことなく論述しており、大著ではあるが、読み通して得られるものが多かったと感じる。


最後の結論部分だけ、翻訳が出ているらしい。詳しくは、『思想』904号、岩波書店、pp.34-72を参照のこと。



406p
総計14321p



http://www.gov.harvard.edu/people/faculty/michael-sandel