09読書日記48冊目 『偶然性・アイロニー・連帯』リチャード・ローティ

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

ゼミのテクスト"What's left of Enlightenment?"の中の一篇にローティの論文'Continuity between enlightenment and 'Postmodernism''というものがあったので、ついでに、ローティの主著の一つである本書を読む。平易な言葉遣いもあって(実際、原書の英語も読みやすい)、割りにつっかかり無く読めた。オーウェルについて論じた八章だけは読みとばし気味であったが。


ローティが20世紀における哲学者の立ち居地として要求するものが、リベラル・アイロニストというものである。まず、政治学者シュクラーの言葉を借りてローティが論じるところによれば、リベラルとは、残虐性こそを最悪の人間の行いであり、それを縮小しようとする人びとのことである。そして、アイロニストとは、自分の信念や欲求の偶然性を理解し、信念や哲学などの基礎付けによって社会を構築しようとする立場を放棄する、歴史主義的で唯名論的な人びとのことである。つまり、リベラル・アイロニストとは「このような基礎づけえない欲求の一つとして、人が受ける苦しみは減少してゆくであろうという、そして人間存在が他の人間存在を辱めることをやめるかもしれないという、自らの希望を挙げる者」(pp.5)だということになる。


ローティは、言語・自己・リベラルな共同体、というものを歴史の中で見出される偶然の産物である、という風に認識し、本質主義的ないし形而上学的な《真理》や《理性》、《自然》というものを認めない。真理について記述するということは、歴史的文脈から浮揚し、普遍的に存在する《真理》を発見することではなく、人間が世界を記述することによって真理を創造=再-記述することなのである。人間存在のみが話すのであり、現象学的還元を経たような物自体というなどは存在しないし、話したりはしない。時代にはそれぞれ世界の記述にふさわしいとみなされている語彙が存在し、その語彙は次に出てくる新しい語彙によって駆逐されるようなものだ。「新しい語彙は、ある特定の一揃いの記述が開発される以前には、思い描くことのできないような何かをするための道具なのだが、とはいえ、その記述の開発をそれ自身が助けている道具でもある」(pp.31)。このような語彙というのはそれぞれ歴史的文脈に組み込まれたものであり、《神》や《自然》を表現する普遍的な語彙ではない。人間の言語を超越的存在を表徴する媒体とするのではなく、むしろメタファーとみなすこと、これこそがローティの推し進める哲学である。このように言語をメタファーとみなすのは、ニーチェが「真理」を「メタファーの動的な一群」としたことと符合する。メタファーは超越的存在を指し示すのではなく、自分の在りようを表すのであり、語り方を変えるということは、自分自身の目的に応じて自分自身の在りようを変えることと等しい。このような議論が示唆するように、自らの語彙が歴史的制約を受けた偶然の産物であり、その語彙によって自分自身が規定されるのならば、自分自身もまた偶然の産物に他ならない、ということが導かれる。


新しい語彙を創造するということは、自己創造へと至ることである。クーンの科学革命論と類似的に議論されるように、新しい語彙は作ろうと思って作られるものではなく、主に天才や革命的な飛躍によってなされるものである。自らの語彙の偶然性を受け止めることなく、旧来の語彙を普遍的な言語として使用することは、新しい語彙を作り出すものではない。新しい語彙を作るのは、非凡な才能を持ってニーチェ的な意味で「強い詩人」なのである。このような「強い詩人」は、しかしながら、公共的な領域において現れるのではない。それはむしろ私的な領域、魂の部分、個人的な完成の探求のなかでなされるものである。プラトン―カント・ラインの形而上学は、私的探求を公的探求に接合すること、あるいはその逆を求めてきたのであるが、フロイトニーチェにおいては、私的領域においての偶然性の探求のみが求められてきた。私的な偶然性を探求すること(それはフロイトオブセッション理論であるのだが)のなかでこそ、新しいファンタジーが登場し、そこから新たな語彙・メタファーの可能性が生まれる。単一の普遍的な語法をもって私的―公的ともに支配しようとするプラトン・カントの哲学には、取り替え可能な記述のレパートリーなどは増加するはずもない。


このように語ってきたローティは、相対主義者だと論難されるのであるが、実はローティの企てにおいては合理主義・相対主義などという論難はもはや意味を成さないのである。それはすなわち、基礎づけ主義を止め、世界をただ再記述していくという完全な世俗化の目論見である。その目論見によって、もはや完全に世俗化された文化であるならば、有限で死すべき偶然の存在であるはずの人間が、自分以外の超越的な価値から何かを引き出すことはありえないのである。バーリンの消極的自由を引き合いに出しながら、リベラル・アイロニストとして彼が述べるには、「自分自身の良心の偶然性を認めながら、なおもその良心に対して忠実でありつづける」(pp.101)ことが大切なのである。なぜ残虐さを縮減することが大事なのか、ということについては循環論法に陥らずには説明できないのだ。というのも、もはや絶対的超越的な何かなどには、世俗化が貫徹された社会では依拠することが出来ないからである。そのように世俗化されたリベラルな社会では、あらゆる哲学的な基礎というものが退けられ、言葉や強制ではない説得が維持された結果こそが全てなのであり、リベラルな文化は、完成されることのない知的進歩を望むために、新しく改良された自己記述をこそ必要としている。つまり、「誰もが「情念」やファンタジーを「理性」に置き換えることになるだろうという希望が、特異なファンタジーを実現するチャンスが誰にでも平等に与えられることになるだろうという希望によって、取って代わられる必要がある」(pp.114)というのだ。


その種のファンタジーの語彙は、現時点では道具としてみなすことは出来ないものである。というのも、それを手段として使用するような目的が存在してはいないのである。しかしいったんファンタジーを道具として用いる方法が理解されれば、つまりヘーゲルによる哲学の定義「自らの時代を思想のうちに把握すること」が可能になれば、運動を発展させていく一般的な進歩の物語をその語彙によって語ることが出来るのである。(今日はトリアエズここまで)


章立ては、以下の具合。
第一章 言語の偶然性
第二章 自己の偶然性
第三章 リベラルな共同体の偶然性
第四章 私的なアイロニーとリベラルな希望
第五章 自己創造と自己を超えたものへのつながり
第六章 アイロニストの理論から私的な隠喩へ
第七章 カスビームの床屋
第八章 ヨーロッパ最後の知識人
第九章 連帯


429p
総計15605p