グラン・トリノ

グラン・トリノ [DVD]

グラン・トリノ [DVD]

イーストウッドは、この二年で最もよく見た映画監督のひとりである。『トゥルー・クライム』を除いて、彼の映画を見るたびに僕は幾度か嗚咽し、見終わるたびに昂奮して何か自分が映画に対して報わねばならないような気になる(そんなことは出来ないにしても)。
どれほど多くの人がこの言葉を叫んだか知らないが、とにかく、『チェンジリング』と『グラン・トリノ』という異常なほどすばらしい作品が、一年に二本も公開されるとは!!
僕はイーストウッド演じるウォルトに『許されざるもの』の殺し屋を重ねていたし、多くの映画ファンはきっと『ダーティ・ハリー』を重ねていただろう。ウォルトが銃を持てばいっきに殺伐とした空気が張り詰める。しかし、実にこの映画はサービス精神に溢れている。暴力への予感は常に漂っているし、あれほどブサイクであると映っていたタオの姉スーは、見る見る魅力的な少女になっていく(しかし常に観客はその悲劇を予感しているのだ)。モン族の料理は本当に旨そうであるし、言葉は分からないながらも、続々と家の前におかれる贈り物に困惑するウォルトは実にほほえましい。ポラックとイタ公のじゃれ合いも本当に笑える。どこかで読んだのだったが、黒人三人に及び腰で「ブロー(兄弟)」などと呼びかけておき、スーを守ることも出来ずしり込みする白人の少年は、イーストウッドの実子なのらしいのだが、その起用にすら大爆笑である。
異文化化していき、<アメリカ>という象徴さえ失われてしまう現実のアメリカ合衆国を描いた社会派とも見ることも出来よう。同じような主題を取った、ヴィム・ヴェンダースランド・オブ・プレンティ』をも想起させるようでもある。この国、そもそも移民の国である、この国で、再び人々が絆を持てるとしたら、それはウォルトとモン族の人らがやった風な具合でしかありえない。それは血というものを超えて受け継がれていくグラン・トリノに他ならない。そうでないなら、つまり、<アメリカ>を同質的な空間として無理に表象・統合してみようとするのなら、それはウォルトと少年タオが立ち向かおうとした暴力の支配する残酷な世界と成り果てるであろう。事実、ウォルトは家族とのつながりさえもはや断ち切られているのだ。
彼は、人生の最後に、そして人生の最後だからこそ、<アメリカ>という国が到達すべきユートピアに向けて希望をつないだのだ。1970年代のグラン・トリノは、まさに<アメリカ>が輝いていたころのものである。それはただdecentに、virtuousに生きる<アメリカ>なのである。現代は「美徳なき時代」(マッキンタイア)である。現代を生きるものらにこそ、グラン・トリノは忘れ去られてはならない。たとえ、それが戦争と言う罪を責め苦にして生きながらえるものではあったも。朝鮮戦争で経験した罪の意識を、ウォルト・コワルスキーは、生涯背負い続けていた。結局彼は、Confessionの中では、朝鮮戦争の従軍について語らなかった。彼はその代わりに、銃を手放し丸腰で、暴力と立ち向かい、自らの命を落とす。何発もの銃弾を浴びて倒れたその姿は、もはや言うまでもあるまいが、贖罪に他ならない。
現代のアメリカは、ウォルトが思い描くような徳に溢れた<アメリカ>ではない。そこには暴力が蔓延し、人びとは堕落する。アメリカ建国時期の思想家が考えたような徳のある<アメリカ>はそこにはない。徳とは、誰にも依存せず、自らの自律をこそ達成される目的であるとする概念である。その自律に基づいた徳は、公的空間に自らが現れることで成し遂げられる、と建国の父らは考えていた。ウォルト・コワルスキーを演じるイーストウッドには、そのような徳への希求が感じられる。閉鎖的な空間で暴力に満ちた退廃を生きることは、堕落に他ならないのだ。
しかし、とにかく78歳の老イーストウッドが、その肉体を奮って、一人の少年のために命をかける、この「後期の仕事」にこそ、僕は感動したのである。それは大江健三郎がサイードから援用して使う「後期の仕事」をもって人生を完成させようとする、円熟の芸術に他ならない。大江が確かに小説で語るエリオットの言葉を持ってして、僕はそれをこだまさせながら、『グラン・トリノ』を見たのだ。「もう老人の知恵などは聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい。不安と狂気に対する老人の恐怖心が」
そして同時に僕らは、まさに『リア王』の亡き後、残された「若者」に他ならない。『リア王』の最期で、エドガーはこう独白する。「この不幸な時代の重荷は吾々が背負っていかねばなりませぬ、言うべき事かどうか、とにかく己の感じた事を在りのままに申しましょう。最も老いたる者が最も苦しみに堪えた、若い吾々は今後これほど辛い目に遭いもしますまい、これほど長く生きもしますまい。」僕らは、イーストウッド/ウォルトの死に様を見て、それに励まされるようだ。
このように堅苦しく語ってみたところで、この映画の(低予算であろうのに)完全なエンターテイメント性に傷をつけることにはなるまい。正直に言って、彼が風呂に入りながら煙草を吸うところ、モン族の婆さんに犬を預けるところ、そのあたりから、ウォルトが最期、「俺は煙草を吸うぞ」とつぶやくところ、泣きっ放しであった。そしてタオが確かに「大人の顔」をして、グラン・トリノを走らせるところ、イーストウッドの声が、ジェイミー・カラムに受け継がれ、グラン・トリノを歌うところなど、もはやどうしようもなく、す・ご・いのである。
グラン・トリノ』をすばらしいと語ることが、もはや僕に許された唯一の使命ではないか、これをすばらしいと語る声はきっと多いにもかかわらず、なおも僕がこれを語りたくならしめるほど、この映画はとにかくすごい。
イーストウッドは、ついに自らを自らの手で葬った。彼は次回作をモーガン・フリーマンマット・デイモンを主演にすえて撮っているところであるという。自らを葬送した後の彼が、どのような映画を撮るのか、僕は少なくともそれまでこの世界に、この絶望するしかない世界に、救いを見出せそうな気がするのだ。