脳死は人の死か。

どうやら「脳死・人の死」で検索をかけてこのブログにたどり着く人がいるらしい。そうなれば、mixiで色々書いたものを、あげておこうと思う。http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20090514/1242310559

脳死を死亡と判断し、臓器移植を行うことについての意見まとめ

脳死は(本人の意志の有無にかかわらず)いかなる場合でも、死と認められない。
・他人の生をいかなる方途であれ、死に至らしめることの禁止は、最も基礎的な倫理的要求である。
・本人の意志があれば臓器提供できる、ということは、意思があれば自分の死を自分で決定できる、ということである。
・自分の死を自分で決定することは(たとえそれが臓器を提供するという一見感情的に賞賛されるべき場合であれ)、自殺に他ならない。
・自殺は、倫理的・直観的に認めがたい。
・身体の自己所有権については、自分が完全に保持できる、という考え方が見直される必要がある。
・自分の身体はそもそも、他者(両親)から与えられたものである。
・自分の身体を完全に意志どおりに動かせるかというと、そういうことではない。生理的な反応は、自分の意志以外のところで常に見られる。生理的な欲求は自己意志を超えたところで現れており、自分の身体が完全に自己意思のもと統御できるかといえばそうではない。
・では、仮に、身体の所有権があるならば、どのように考えればよいか。それは生理的な反応に担保されている、とみなされるべきである。
・生理的な反応が、身体を所有している。その上で、自分の意志が、サブ・システムとして身体の所有権を仮構している、と考えられる。
・あるいは、自己意志を自我とするなら、自分の身体の生理的反応は、自己意思とは無関係に存在するという点で、それを<他者>とみなすこともできる。最初に書いたように、他者の殺害の禁止は、最も基礎的な倫理的規範である。
・A案は、自分が脳死を死亡だと遺言しない限り、遺族によって(あるいは法によって)他者の生を死だと判定することを、妥当させる。
・自分の生を自分で死亡通知することさえ許されがたいのに、どうして遺族や法といった自分以外のものから生を死亡判定されることが許されるのか。
・強制的な手段によってでも生物的反応が見られる限り、その強制的な手段を停止することは許されない。
・意識がなくとも、人として生まれた以上、生物的反応がある限り、「人の生」とみなされるべきである。
・先述したとおり、自分の身体は自分の意志を超えたところ(生理的反応)にこそ担保されている。それを考えれば、人として産まれ、生理的反応がある以上、その人の生は続行されていると考えられる。
・確率論的に、脳死者となる確率より、臓器提供必要者となる確率のほうが高い、という。
・臓器提供必要者が、臓器提供の拡大を求めるのは、臓器提供が可能になれば、助かる命が増える、ということを含意している。
・このことは、脳死者として残りの生を続けること、と、臓器提供されて延命した生を続けること、を比べることに他ならない。
・そのような比較は、不可能である。それぞれの生についての価値基準が異なる以上、二つの生を統一的なものさしであるところの、意識ある生/意識のない生という基準で図ることはできない。
・一生何もせずに寝たまま怠惰に暮らしている人と、勤勉に働いて一生を送る人の生を、「満足度」や「幸福度」といった観点で比べることができないのと、同じである。
・たとえば、わたしは脳死状態であっても生を全うすることに幸福を感じる。
・臓器提供の拡大を求めることには、「どうしてあの人だけ提供されて、わたしは提供されないのか」という不公平感を取り除こうという含意がある。
・しかし、脳死になる確率<臓器提供必要者になる確率なのであれば、たとえ一律的に脳死を死亡とみなし、臓器提供を行ったとしても、その不公平感はより強まるだけであり、解消されることはない。
・本人の意思の有無に関わらず、臓器提供を行うことは、自分の身体を他人の道具とすることに他ならない。
・自分の身体を他人の道具とすることは、倫理的に認められない。奴隷状態が認められないことと同じである。


参考になりそうなブログ
http://d.hatena.ne.jp/minajump/20090512/1242113038