09読書日記52冊目 『性愛と資本主義』大澤真幸

性愛と資本主義

性愛と資本主義

僕が最初に(図書館で)この本を手に取ろうとしたとき、それはおそらく二年前であったろうが、そのときにはまず最初の「ボブとアン」というごく短い序説の部分で、本を放り投げてしまった。今となっては、大澤さんの議論は、ほとんどよく知っているものといっていいため、むしろ新しむことなく本を読み終えてしまったわけだが。


性愛とは、自己の否定という意味での他者との直接的なコミュニケーションを意味している。自己の否定としての他者とは、すなわち、自己の主観によって対象化(あるいはコントロールできる物として対象化)されえない、究極的に予測不可能な他者である。性愛においては、他者が自己に対する否定性を通じてあらわれてくる。たとえば、愛する人の身体に触れるとき、その触れたモノとしての身体は、端的に自己を否定するものではない。しかし、愛する人の身体に触れるという行為は、同時に、モノとしての身体ではなく、一つの予測不可能な身体としてもたちあらわれるのである。予測不可能な身体は、<私>にとって、捉えようとすればその瞬間に逃れていってしまうような一つの否定性を持っている。愛する人と同一の状態になりたいにもかかわらず、その同一の状態が原理的に不可能であるということは、悲劇的なことである。しかし、このような<他者>という不可能性にこそ、性愛を志向する自己の欲求があるのだ。


増補版では、サッカーと資本主義について、「オフサイド」のルールを解釈しながら、非常に興味深い議論が展開されている。


287p
総計16682p