アファナシエフ

夕方から京都造形大で、ロシア人ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフを迎えての「詩とピアノの夕べ」というイベントに行ってきた。昨日はイチゴ狩りへ行き、今日はピアノリサイタルである。もはや夏休みだ。



僕はちっとも知らなかったのだったがアファナシエフは、かなり有名なピアニストであり、浅田彰の紹介によれば「ロシア・ピアニズムの最後の継承者」であるという。


アファナシエフが独特なのは、彼がピアニストでありながら同時に詩人でもある、ということである。このイベントも、アファナシエフ自身によるポエトリー・リーディングを通じて、浅田彰との対話がメインであり、その合間合間に彼がピアノを弾く、という独特のもの。


音楽と詩を行ったりきたりするとすれば、おのずから表現の可能性について自覚的にならざるをえないだろう。アファナシエフによれば、詩作とは自分についてより豊かな「空間」を創造していくことだという。空間に対置されるのは、もちろん時間である。音楽が時間の枠内で構成される、つまり有限なる時間内で直線的に進んでいく芸術であるのではないか、と浅田彰から聞かれたアファナシエフは、これに対して、かなり興味深い発言をしている。


それによれば、音楽は時間軸を動いていくように思われるが、例えばソフロニツキーなどの天才的なピアニストの音楽では、時間軸を進んでいく多数の音が一つの和音に凝結するかのように響く、という感覚を持つというのだ。


アファナシエフはそれを「音楽の不動性」と呼ぶのだが、それは言い換えれば音楽を時間としてではなくて、空間(永遠なるもの)として創造すべきではないか、ということである。また、彼は音楽における休止poseがもつ、表現的な優位に言及し、休止において「音楽が音楽自身に耳を傾けることをしないといけない」と言う。例えば、偉大な音楽においてはフォルティシモが鳴り響いているなかにでも「沈黙」「休止」は存在すると言うのだ。アファナシエフが目指すのは、音楽に構成的な有限時間を越えて、空間的な把握を通して芸術を「永遠」へと漸近させる試みだろう。


イベントでは彼は五つの詩を読み、その間にアンコールを含めて4曲のショパンのワルツを弾いた。ワルツ第七番は有名曲であるが、彼の演奏は僕が聞いてきたそれのどれよりも遅いのである。ショパンのワルツは一般に小曲であるが、そういった小さな曲をゆっくり且つクリアに演奏することで、時間を解体しもう一度新たな空間を立ち上げようとしているのだろう。


浅田彰の解説も非常に分かりやすく、良い意味でペダンティックであったし、何よりアファナシエフの詩が優れて美しい。しかし、である。その美しい詩の後に引かれたショパンは、なおさら心に響くのである。それは言葉によらない<音>が持つ特権であろう。かなり悠長に演奏される第七番は、たっぷりと豊かな沈黙を含んだ空間を、確かに創りあげたのだった。


詳しい実況中継はhttp://d.hatena.ne.jp/antipop/20090616/1245168223参照