09読書日記53冊目 『コミュニケイション的行為の理論』ハーバーマス

コミュニケイション的行為の理論 上

コミュニケイション的行為の理論 上

コミュニケイション的行為の理論 中

コミュニケイション的行為の理論 中

コミュニケイション的行為の理論 下

コミュニケイション的行為の理論 下

一応の通読が終わった。ハーバーマスとの格闘の日々だったわけだが、ハーバーマス自身の理論的内実はむしろ分かりやすい。ただ、それをウェーバーアドルノ、ホルクハイマー、パーソンズらの思想への応答として位置づけている部分が、難しい。特に、ウェーバーの合理化論のところは、ウェーバー自体が難しく、読むことがかなり苦痛であった。本書は一貫して、近代化のありえたもう一つの側面としてコミュニケイション的行為が合理化していく過程を描いている。ウェーバールカーチアドルノ、ホルクハイマーらは、近代化を目的合理性が一面的に花開いた現象であると論じており、その近代化を促進した理性が人間に解放をもたらすことなく、人間を自然から疎外してしまっているとして、道具的理性を批判するのである。それに対してハーバーマスは、目的合理性に基づく近代化の裏側には、コミュニケイション的行為が合理化されていく過程もあったのだということ、そして生活世界とシステムの分断が市民的公共性の解放の可能性も秘めていた、ということを指摘するのである。したがって、主客の分離から導かれる目的合理性を基軸にした主観哲学で示されるような人間疎外の状況は、主観哲学事態では克服できず、あらたな言語論的展開を必要とするとする。疲弊しきった主観哲学を、相互主観性に基づくコミュニケイション的行為の理論によって修正し、人間疎外の状況を、むしろ生活世界がシステムの命令によって植民地化されている状況であると、定義しなおすのである。もちろん、そのような分析から導かれるのは、批判可能な三段階の妥当性を組み入れた了解志向的行為の空間である討議こそが、内的植民地化に抗する潜勢力を持つ、という認識であろう。


もう一度よく読まないといけないのは、第一章第一節(「合理性」――一つの暫定的な概念規定)、第三章(第一中間考察)、第四章(ルカーチからアドルノへ――物象化としての合理化)、第六章(第二中間考察――システムと生活世界)、第八章(最終考察)の部分である。もちろん、続く『事実性と妥当性』『討議倫理』『他者の受容』なども読まないといけないが、もはやしんどい。


370+356+434p
総計17842p