詩篇

言葉は沈黙に負けつづける。沈黙が詩篇となって僕らに降り注いでいる。詩人は沈黙を言葉にする。沈黙は言葉に変えられたときから、本当であることをやめ、その人の幻となる。「本当のことを言おうか」と誰かが切り出すとき、いつもそのあとに続く言葉は本当ではない。言葉は沈黙を裏切りつづける。
愛は、すべからく沈黙だから、「愛の言葉」という表現は語義矛盾だ。愛は言葉ではない。愛は言葉にされるたびに、真実であることを捨てて外側へと、愛を否定していく。愛とは言葉にならない気持ち。それでも僕らが、あなたに愛を伝えねばならないとしたら、唇を重ね合わせる以外にあるまい? 
愛は言葉となって、雲散し霧消する。僕の本当のことが、本当たりえているのは、僕の沈黙の中に、それらが滞留しているときだけだ。言葉は沈黙を陵辱し、あたかも本物ヅラをする。詩人は、愛を語る。そしてそのたびに愛は空虚な戯言となる。詩人は涙を流しながら言葉の無力に打ちひしがれて、しかしなお、搾り出すようにして言葉をつむがねばならない者たちを言う。
沈黙と愛、静寂と言葉、その葛藤に無自覚なものは詩人ではない。愛する者だけが詩人足りうる。愛が憎しみに変わるとき、詩人は詩人ではなくなり、審問官になる。沈黙を裁断し、アンチ-ラブを糾問する。おまえはどうして俺を愛さない、愛さぬお前は罪びとである、愛の証拠を挙げよ、愛に報いよ、愛の強盗罪、などなど。
僕らが愛に無自覚で、それだけいっそう憎しみあえるとしたら。僕らが愛に投げやりで、それにもかかわらず開き直って厚顔ならば。何も言わないで、そのまま眠り続けている野牛を、僕らは放擲できるのだろう。
しかし、僕らは言葉を裏切ることはできない。言葉のない愛は、獣たちの欲情にすぎない。本能的な衝動、生殖と快感、絶倫と淫猥、それだけが動物たちに与えられたものだ。愛は言葉を持つものにしか存在しえない。言葉になる前の愛が、愛たりえるのは、それが言葉になる前の沈黙の中にあるからだ。もし僕らが言葉を不信し、言葉を見棄てるなら、それは愛ではない。突き破られた処女膜から、擦り切れた肛門の粘膜から流れる血、僕らはそれを言葉にする。愛にする。
愛は君の名を呼ぶ。愛は言葉となる前の沈黙で、君の名を呼ぶ。静かな祈りにも似た、夜更けに降る小雨が、恋人たちを乾かして、言葉は湧き立っていく。あなたに伝えたいことがある。あなたに聴いて欲しいことがある。耳を貸して、目で知って、唇が震える。はるか絶望の前に、どこまでも広い野がある。そこで二人は言葉を拾い、愛を呼びあう。
言葉は沈黙に負けつづけるが、言葉を知らない沈黙は永遠の暗闇でしかない。マッチを擦って、火をともしてから僕らはそっとため息して、かつてそこにあった沈黙を思い遣る。愛がそこにはあった。愛はいつも、現前から遠ざかり、手に入れたと思ったはなから失われていく。沈黙は回顧の中にしかない。言葉は愛を失い、沈黙を夢見る。愛は沈黙の中にあり、言葉の瓦礫にそびえ立つ。
一人、僕は静かに、君に詩を読む。遠くに、手の届かない君へ、詩を読む。


楓/草野正宗

探していたのさ 君と会う日まで
今じゃ懐かしい言葉
ガラスの向こうには 水玉の雲が
散らかっていたあの日まで

風が吹いて飛ばされそうで 軽い魂で
人と同じような幸せを 信じていたのに

これから傷ついたり 誰か傷つけても
ああ僕のままで どこまで届くだろう


鳥羽1/谷川俊太郎

何一つ書くことはない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえつてくらい

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!