カミング・アウトの罠

先日明らかになった、「両性具有」の陸上選手のニュースは、敏感な人にとっては、非常に心に触れるナイーヴな問題を内包している。
それは、こういう想定である。今まで普通の女子陸上選手として活躍してきた《彼女》は、世界大会においてあまりにもすばらしい記録を更新したがために、「男なのではないか?」という疑念をかけられることになる。《彼女》は、自らの女性-性を信じており、そのような疑念を一笑に付すことができた。記録と金メダルという栄光をはっきりさせられるものなら、検査でも何でも受けてやろう、という気だったに違いない。
しかし、医学的な検査は、《彼女》に思いもかけない結果を突きつける。《彼女》は、彼女なのか彼なのか、それさえも定かではない、「両性具有者」だと診断されてしまうのである。もちろん《彼女》のそれまでのセクシュアル・アイデンティティは女性であったろう。しかし、この科学的検診によって、《彼女》は純粋に「彼女」ではなく、身体的には男性-性をも持ち合わせていることが明らかになったのだ。
私は、このように、科学的な検査によって明らかになった、《彼女》の性の両義性が、《彼女》に与えたであろう驚きと愕然を思うと、なんと言ってよいか分からない。表面的な同情の言葉――「君の気持ち分かるよ」――を発することさえ、《彼女》の人格を貶めることになるであろう。もし私が《彼女》であったなら、という想定さえ道徳的に不謹慎であるような印象をも受ける。
ところで、同性愛者などの、セクシャル・マイノリティが、社会に向けて自らのセクシャル・アイデンティティをつまびらかにすることは、一般的に「カミング・アウト」と呼ばれている。セクシャル・マイノリティは自らのアイデンティティを社会的に承認してもらおうと、あるいは、自己を社会へさらけ出そうと、その存在を認知してもらおうと、カミング・アウトすることがある。
このカミング・アウトが、マイノリティの自己選択の産物としてなされるときには、まだよいと思われるかもしれない。しかし、今回の南アの「両性具有」というレッテルを貼られた陸上選手の場合、《彼女》は、いわば受動的に「カミング・アウト」させられたも同然である。しかも、医療的検査という外在的な方法によって、彼女は自らのセクシャル・アイデンティティを、全世界に向けて暴かれてしまったのである。もっと言えば、その暴かれ方は、ほとんどレイプに近しいようなものだと言える。つまり、それまで慣れ親しみ、同一性の拠点としてきた自らの身体が、自らの女性-性というセクシャル・アイデンティティを裏切るものとして、「両性具有者」として立ち現れたのである。
いわばカミング・アウトの暴力をうけた《彼女》の気持ちを、私たちは推し量ることさえ出来ない。
だが、そもそも、カミング・アウトは、セクシュアル・マイノリティにとって自己選択として現れているのだろうか。カミング・アウトする動機とは、自らの存在を社会的に承認して欲しいということである。一見、カミング・アウトするもしないも、マイノリティ個人の選択のように見える。しかし、カミング・アウトとは、あまねく強制された否応なしの行動・暴力だといわねばならない。
それは、セクシャル・マジョリティにはカミング・アウトという儀式が存在しないことを考えれば明らかである。マジョリティにとって、例えばヘテロ・セクシャルの人びとにとって、その性は、初期的に社会から承認されているものだ。彼らにとっては、それを再び「カミング・アウト」するということは、ありえない。
しかし、一方、マイノリティとは、自らの存在がそもそも社会から承認されていない(と感じる)がゆえに、マイノリティなのであって、承認を得るためには、自らの《唯一性》、すなわち「他でもない私」の性質、を暴露せざるを得ない。
ここにおいて、セクシャル・マイノリティは、二重に疎外されていると言える。二重の疎外とは、社会学者・見田宗介が考察しているように、普通考えられているような「〜からの疎外」の段階以前に、「〜への疎外」があるということである。
つまり、セクシャル・マイノリティにとっては、「社会から承認されること」を強く欲求するがゆえに、自らのマイノリティとしての存在を「そのものとして」受け入れることができない。そして、次に、自らのマイノリティとしての存在が「社会から承認されている存在」ではないこと、そこから排除されていることを認識するのである。整理すれば、まず(1)「社会へ」疎外されている状況、すなわち自らの存在をそのまま引き受けることができない状況があって、次に(2)「社会から」疎外されている状況があるのである。
マイノリティにとって、「カミング・アウト」への欲求を持つこと自体、そもそも自らのセクシャル・アイデンティティを引き受けることに失敗していることを意味している。そのアイデンティティの確立の失敗は、本源的に、社会がマイノリティを承認していないという状況が淵源となっている。カミング・アウトは、決してマイノリティ個人の選択の産物なのではなく、マイノリティを承認しない社会から強いられた行為なのである。
セクシャル・マイノリティは、自らの存在を明らかにしなければ、しかも、その存在の根幹である性に関する事柄を開示しなければ、アイデンティティを引き受けることができない。
だが、私たちはここで一つの疑問に直面せざるを得ない。カミング・アウトによって、自らの性を暴露することが、本当に存在の承認になるのだろうか、ということである。
議論を進める前に確認しておかねばならないのは、性にまつわる事柄は、純粋に自己の存在の独特さに関わる、ということである。
例えば、こう考えてみよう。私たちは、いかようなる国の出身であれ、いかようなる思想の持ち主であれ、いかようなる外見の人物であれ、そのような性質を特に考慮に入れないで、私的な交際を始めることができる。しかし、性別はどうであろうか。男女という単純な二分法を用いて区別した場合でさえ、誰かと交際を始めようとすれば、私たちはその性差を最低限考慮するのではないだろうか。このように、ごく簡単な例を見た場合でさえ、性に関する事柄が、その人の存在の根幹に関わっていることが分かる。
私たちの疑問は、カミング・アウトが本当にその当人の存在の承認に役立つのか、ということであった。答えは、否である。なぜか。セクシャル・マイノリティによるカミング・アウトとは、当人のセクシャル・アイデンティティを開陳することである。カミング・アウトは自らの存在の根幹に関わるようなこと、つまり、「《私》は他の誰でもない」とするような性質のことを、明らかにすることだと言える。
そうであれば、それは承認される、理解する、という身振りからは、まったく拒絶されねばならないのではなかろうか。急いで説明を付け加えよう。自らの唯一性の根拠である性を告白することは、自らの「他の誰でもない私」ということ、「誰とも異なる私」というものを明らかにすることである。とすれば、「誰でもない私」の性が、簡単に他者から「理解」され、「共感」されるということは、端的に「誰でもない」「誰とも異なる」という《私》の唯一性の消去にほかならない。「誰でもない私」、「誰とも異なる私」は、純粋に《他者》との差異であって、それが架橋され「理解」されるということは、語義矛盾である。
明らかに、セクシャル・マイノリティは、社会的な承認へ/から疎外されており、自らのアイデンティティを自律的に確立することは難しいように見える。しかし、かといって、承認欲求からなされるカミング・アウトは、そもそもマイノリティの存在を承認しない社会から強制されたものにも関わらず、まったくセクシャル・アイデンティティの承認には役立たないのである。カミング・アウトがなされた場合は、むしろ、それが社会から強いられたものである分だけ、より当人のアイデンティティを傷つけるだろう。
今回の、南アの陸上選手の事件は、そもそも社会が男女という二分法的な規範に縛られすぎていて、それ以外の「逸脱者」への配慮が著しく欠けていることを示した。南アの陸上選手は、まさに社会からあからさまにカミング・アウトを強制され、その結果、自らのアイデンティティの承認に失敗したばかりか、むしろアイデンティティをひどく混乱させられてしまったのである。