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・雨が降ったり止んだり。今はとっても静かだな。夜、一乗寺の友人宅に泊まりに行こうとしたら、先客があった。うーん! やっぱ誘って断られるの嫌い。躊躇しちゃいますよね。
・図書館で偶然奴に会う。話しかけようか迷ったけど話しかけてもうた。またコヤマに馬鹿にされるわ。喫茶店に行く。話す。もしかしてこのブログ見てるんかな。

爆笑問題の「爆問学問」(NHK)に永井均が出ている。永井均と言えば「<子供>のための哲学」が有名だけれど、動いてる永井さんを見るのは初めて。「自分がなぜ自分でなければいけないか」という問いは本当に「自分」だけの問題である。その問いを、あるいは自分のアイデンティティの根幹を成しているであろうと考えられるものを、僕は谷川-大江の言葉を使って「本当のこと」と呼んでいる。「本当のこと」は、自分が誰かに伝えようとすれば、共通言語を介して伝えられねばならないがゆえに、他人にとっては自分にとっての「本当のこと」は、単なる命題に堕してしまわざるを得ない。
僕の知り合いの同性愛者が、かつて教えてくれたことを覚えている。周囲にカミング・アウトをしたいと思うときがある。友人らに自らのセクシャリティを伝えたらどれだけ楽になるだろうか。同性愛を隠して異性愛社会で生きるには恋人や結婚など面倒くさいことが多い。そのように思う一方、しかしながら、カミング・アウトした自分のことが友人たちに簡単に理解されたいとは思わない。むしろ、自分のことを拒絶してほしい。
彼の真意を推し量ることはできないが、僕はこの、ある意味で「ひねくれた」感情こそが自分だけの「本当のこと」が持つ独特性を示唆しているような気がする。自分の「本当のこと」、アイデンティティの根幹のことが、他人に理解されるということは、ありえない。それは自分の独特性というものを否定するものになる。自分は《他人ではない》としか表現できないような唯一のものである。《他人ではない》をつかさどっているものが他人に理解されることなどはない。その意味で、彼のひねくれたカミング・アウトへの感情は、まさに「本当のこと」がはらまざるをえない矛盾をもっている。
「本当のこと」は言葉に出して語られれば、それはもはや「本当のこと」ではなくなってしまう。「本当のこと」は語り得ない。語り得ないものについては沈黙せざるを得ない。
しかし、僕は最近は思うのであるが、本当に「本当のこと」「語り得ないもの」が存在するのだろうか。言葉があるからこそ、それが覆い隠している「語り得ない」「本当のこと」が存在するかのように見えているのではなかろうか。

・にしても、友人に薦められたジャパハリネットまじださい。