09読書日記69冊目 『「公共性」論』稲葉振一郎

「公共性」論

「公共性」論

リベラリズムと公共性をめぐる一連の思想動向を取り扱っている。ハーバーマスよりもアレントに公共性の可能性を見出そうとし、またアレントが時折被る彼女の復古的な公共性論を読み替えることを提案している。ハーバーマス『公共性の構造転換』が理論的な基準点を提供してくれている一方、彼の構造転換論はフランクフルト学派マルクス主義的な資本主義悪玉論になりかねないとし、それを斥ける。著者によれば公共性は構造転換したのではなく、市民的公共圏というものが大衆社会の到来において理論的求心力を失っていったに過ぎない。かつて特殊歴史的に存在したと考えられる市民的公共性というものは、そもそも現実的に存在したと言うよりも理念として存在していたのであったが、その理念の求心力が失効したというのである。大衆社会の到来の時期には、左翼の側から「資本主義の構造転換」とも呼ぶべき、独占資本主義や帝国主義への批判があった。しかし、著者はその資本主義の構造転換さえ、左翼の誤解であると言うのだ。それよりも、著者は、大衆社会の到来とその深化、すなわち高度消費社会と情報社会化が人々の生活世界の変容そのものであって、その変容振りがもたらした疎外感が資本主義経済への誤った不信と懐疑を生んだのではないか、と論じている。

本書の問題意識は(中盤あたりで漸く明確にされるのであり、そのことで本書は極めて雑駁な読みにくさを与えているのだが)、左翼的な市民社会論が求心力を失った大衆消費社会時代において、どのような公共性を提案すればよいか、あるいは果たして公共性は可能か、ていうか公共性っているの?ということである。現代において、人びとは「生活世界」が「システム」の攻撃を受けて抑圧の状況が立ち上がっているというような危機的認識をもはや持つことさえなく、自らが消費したいものを消費しつくす、と言う態度に出る。言い換えれば東浩紀が言う「動物化」の現象において、公共性をどう考えれば良いか、ということが本書の中心課題なのである。その状況とは、いわば「よき全体主義」とも呼べるものにほかならない。人々が全く幸せに暮らしていける全体主義社会があれば(その想定はおよそ不可能なものであるが)、それはどうして、なかなかに否定しにくいものになる。稲葉はそれを加害者の側、統治者の側から考察することでうまく回答している。しかし、僕はそこに何となく納得が行かないものを感じる。共和主義ならばどのように回答するのであろうか?それこそが研究するテーマではあるのだが。

404p
総計22795p

他に読んではる人
すんごくちゃんと整理してる人が多いです。それだけ影響力と反響の大きい本なのですねえ。
http://d.hatena.ne.jp/kantank/20080315
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080321
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http://d.hatena.ne.jp/poppokobato/20080531
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20081008
だが、わりに「難しい」とも言われる様子。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080502/p2