09読書日記70冊目 『関係する女 所有する男』斉藤環

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

ラカン派の精神分析医である斉藤環による、ジェンダー論。genderとsex(前者は文化的社会的性差、後者は生物学的差異)を区別した上で、「ジェンダーとは何か」が精神分析の理論に依拠しながら考察されている。ジェンダーの差異を、遺伝子や脳の性差に還元したり、「男/女は本来・自然として〜である」というような本質論的な議論を退け、しかしラディカル・フェミニストが言うような全くの性差が存在しないと言うジェンダー・フリーにもくみせず、ジェンダーが構築的であることを認めながら、なおかつそのジェンダーはどういう類型に分かれ、再生産されていくのか、ということを扱っている。

斉藤環の主張によれば、ジェンダーにおける「男」とは「所有への欲望」の謂いであり、「女」とは「関係への欲望」の謂いである。ここで気をつけておかねばならないのは、男は本質的に所有欲があるものだ、とか、女は自然に関係を求める生き物だ、ということなのではない。斉藤が言いたいのは(ジェンダー論初心者にとっては分かりにくいと思われるし、そこが本書の欠点になっているが)、ジェンダーを男/女というあたかも生物学的な性に還元することをやめて、それよりも比喩的な意味で「男」と「女」をとらえ、それを元により複雑で幅広いジェンダー意識を持つべきではないか、ということである。フロイトラカンの説明を元に展開される終章は極めて理論的で、多少なりともラカンやその他の精神分析関係の議論に触れたことがない人ならば、ほとんど何を言っているのか分からない、あるいは全くの眉唾物であるとみなしたくなるかもしれない。しかし、ラカンにしろ斉藤環にせよ、「男」/「女」という区別を、生物学的なもので捉えているのではなく、その区別を、言語や社会といったものの構造のうちに見出そうとする努力の中に位置づけているのである。とはいえ、ラカンの議論に精通している人ならば、斉藤がただラカンのファルス論を持ち出して現代社会を分析しているに過ぎないことも分かる。しかも、そのようなラカンの性的差異の公式を用いた理論的な研究なら大澤真幸*1のほうが数段優れているといえる。が、まあそれを本質主義批判に用いて云々するというのは、読んでいて納得できてオモシロ行っちゃあ面白いのだが。下は、かなり分かりやすく記述したつもりのラカンの性的差異の公式。

ラカンの議論の詳細はよく知らないが、彼の有名な言葉「女は存在しない」については、前提となる知識として持ち合わせておいたほうがよい。ラカンは主体が出現するためにのアプリオリな条件として「性的差異の公式」を説いている。ここで言う性的差異というのは、主体-他者のあり方そのものを規定する二種類の極端な条件のことであって、間違っても生理的性別のことではない。
ラカンによれば子供(男)は、生まれたときに母親にはペニスがないことを知り、そして次に母親はペニスを欲していること、しかもそのペニスは父親によって与えられるものであることを知る。自らも母親にペニスを与えられる存在でありたいと願うが、しかし父親には到底かなわない。そこで、自らは父親に「なる」のではなく、父親と同じような「ペニス」を手に入れようと欲求する。そのペニスこそが「ファルスphallus」であり、例えば言語や社会規範などといった父親が獲得しているものである。つまり、男は実際に母に愛されるということの代りにファルスという余剰を手に入れるのである。それが斉藤の言う「所有する男」の意味にほかならない。このようなファルスは言語であったり規範であったりするわけだが、それらは「多くの人がそうやっている」という意味で確実性・統一性をもつ。つまり、男とは、ラカンによる分析では、純粋に個別で具体的・特殊的な他者に向き合っているというよりかは、他者の他者とも言うべき「大文字の他者」に向き合っているのである。男は自らを「大文字の他者」との関係において定義される。ここで重要なことは、次に述べる女の理解にも必要なことであるが、男は「大文字の他者」へ志向することで、実は具体的・個別的な身体を持った他者を必要とせずに、充足することができる、ということである。
一方、女は、男にあるようなペニスが自分にはないこと、そして母親にもそのペニスがないことに気づくと、父親のペニスを羨望するようになる。男にあっては、父親のようなペニス(を象徴するファルス)を持ちたいと考えるが、女はむしろペニスを持ちたいというよりは、ペニスを享受したいと考えるようになる。つまり、ペニスを持つ男と関係を持ちたい、という風に欲求されるのである。男がファルス(言語、規範)を「獲得」「所有」することで「大文字の他者」に接するのに対して、女は具体的に他人と「関係」を取り結ぼうとするのである。こう言ってよければ、女はファルスを持つことを欲求しないがゆえに、ファルス(象徴界)から疎外されている。
繰り返し言えば、こういったラカン-斉藤環(そして大澤真幸)の議論が示しているのは、生物学的性差としての「男」「女」ではない。それは他者理解についての二つの極端な位相を示しているのだ。他者を理解するというとき(あるいは他者を愛するというとき)、その他者についていかに言語(ファルス)で記述しようとしたとしても、つまり、その他者についてのありとあらゆる具体的な性質を列挙していったとしても、どんなに多くそれを列挙したところで、その他者のすべてを定義することはできない。まだ自分の知らない性質をその人が秘めている可能性は消せない。つまり、このように定義できない具体的で特殊な身体を持った他者に「関係しよう」とするあり方こそが、ラカンのいう「女」なのである。一方、ファルス(言語や規範)を「所有する」ことで、自分以外の「多くの」他者、他者の他者、「大文字の他者」(つまり、「みんなそうしている」というときの「みんな」)へと向かうものを、「男」というのである。「男」は具体的な現前する他者がいなくとも、ファルスという他者の欲望を得ていることで満足せざるを得ない。

254p
総計23049p

*1:大澤『性愛と資本主義』『〈自由〉の条件』を参照