09読書日記72冊目 『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

仲正昌樹の概説本を読むのはこれで二回目(一回目はhttp://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20090603/1244048450)なのだが、簡潔にまとめられていて読みやすく、それだけで価値がある本だと思う。反対に言えば、読みやすく概説的であるだけで、とりたてて思考を刺激される、ということもないのだが。だが、卒論のアレントのパートをまとめる見取り図とメモ的な意味では、とても役に立つ本だったと思う。イチイチ現代の諸問題に置き換える新書ならではのサービス精神には少々うんざりしたとしても、そうである。

読みながら考えていたのは、いくつかある。
アレントの『イェルサレムアイヒマン』をちゃんとよまなあかん、ということが一点。悪の陳腐さ(banality)とは、その悪が誰でもなしうるものだということである。その悪がどうしようもない異常/狂気的なものであって、誰からも超越している、ということではない。自由な行為と責任をめぐる諸問題についても応用できそうだ。いかにその悪が異常なものに見えようと、その悪を批判するためには、「私たち」もその悪がなしえたのだ、しかしその悪をなさなかった、という論理が必要になる。陰謀論的に、あるいは秘教的に、彼の心の闇とか本当の心などを捜し求めることは、一方でその悪をさばき得ないものにする。言論によって、あるいは公的領域において、悪をさばくときに、陰謀論的解釈は障害となりえる。
二点目は、アレントの政治解釈が復古的なもの、また、ホーム・ルーム的なものだとする批判についてである。彼女は社会の複雑性を考慮していないだとか、公私の分離が不可能になった近代においていまだにそれを説き続けるKYなのだ、とかいう批判は、あまりにアレントを馬鹿にしすぎているように思える。アレントのような卓越した知性の哲人にとって、近代社会の複雑性や資本主義の抗えない力を無視することなどできなかったはずだ。むしろ、考察すべきは、お『人間の条件』その他の著作において、彼女が(おそらくきっと社会の複雑性を感知していたであろうにそれでもなお)どうして公私分離や政治活動へ希望をつないでいたのか、ということである。問いは反転されるべきである。
三点目は、アレントの活動論についてだが、彼女は仮面personaの比喩を用いて公的領域における人間を分析することが多い。彼女の仮面の比喩は、一見、アイデンティティの政治とはつながらないように感じられる。公的領域において、人はなりたいものになれる、見せたいように振舞える、とまで彼女は言う。その一方で『人間の条件』においては公的領域において人間が「現れ」、他人から「見られる」ことで、whatではないwhoを獲得できる、といっている。whoはおそらく、アイデンティティと同義だとみなして差し支えないだろうが、このことと仮面の比喩はどう結びつくのか。ハーバーマスアレントから影響を受けつつ、彼はこのようなpersonaの議論を踏まえていない。このことも関連させて考えなければいけない。
四点目は、手短に、ルソー解釈をめぐるアレントとポーコックの差異について研究しがいがあるのではないか、ということ。
五点目は、公的領域における「意見」と理性/真理の問題である。仲正はアレントが「「政治」を動かしている「意見」や「同意」と、哲学的、あるいは理論的な「真理」の間の緊張関係を論じながら、結論としては、理性の志向する「真理」が、「政治」を制約し、自由な活動のための土台を提供すると論じている」(p172)と書いているが、これは本当だろうか。アレントは、確か『革命について』などで、理性や真理の基準を公的領域に持ち込むことに懐疑的だった気がするのだが。そこから敷衍して考えれば、同意が前提とされているコミュニケーション的行為の公共性や熟議民主主義などが理念にする理性的な発話行為と、デマゴーグ的な発話、あるいは理性的とは言えない発話とは、どのように区別されるのか、ということも照準に入ってくる。アレントは、僕の今の考えでは、どちらも区別できない、と考えているように思われる(もちろん間違っているかもしれない)。僕の理解するアレントの議論に従えば「間違う可能性」を視野に入れることができるのは、前者の理性-真理を志向した発話ではなく、後者の方の「意見」なのではないか。ハーバーマスも依拠するポスト形而上学的な考えによれば、普遍的に妥当する真理などは存在しないのであるが、そうであれば、コミュニケーション的行為の発話空間で、同意が前提とされていること、あるいは同意へといたるために使用される公共的な理性という議論は、整合しない。真理の実存がもはや否定されている状況で、絶対的に同意できない可能性のある倫理的文化的な問い対して、理性的な討論を行うということは、どういうことを意味するのか。そういう議論が、「何らかの一定の同意にいたるであろうことは確実だが、その同意の内容については不確かだ」とするのであれば、公共性の議論が単純に「くじ引き」に置き換えられたところで問題はなさそうに見える。

などなど、いろいろまとめて考えられました。初学者にも親切な書き方でよかったかな。

226p
総計24119p

他に読んではる人
http://d.hatena.ne.jp/tukinoha2/20090712
http://thought.air-nifty.com/thought/2009/06/post-e389.html