10-21

左京区に住んでおでんなんか煮込んでいると、永遠にこのままで生き続けたいという怠惰な感情にほだされるよん。おでんに手羽先入れると結構ナイスなんしってましたか? もちろん牛スジでも可!

人との関係において、それはもちろん友人でも恋人でもそうだけれど、どっか共通項みたいなのが挟まっていないとやりづらい、ということは往々にしてある。その共通項は「場」であったり「趣味」であったり様々やけど、とりあえずその人の人格その他もろもろに直裁的に接するんじゃなくて、一つ共通項を媒介にして、間接的にその人に触れられるもんです。もちろん、直接的に面と向かってお互いの人格とか二人の関係とか、思想なんかを語り合うのもヴェリグーなのは知ってる。けど、普段、なんか間にひとつ共通のモンがあるっていう関係が前提だからこそ、直接面と向き合って「腹を割って話す」時にカタルシスが感じられるんじゃなかろうか。

友人になる条件は、恋人になる条件に負けず劣らず、理解不能なものではあるけれど、友人になる条件の中には「共通媒介」というものが大きな割合を占めている。なんか道端でばったり会ってそこから友人になる、とかいうんじゃなくて、共通の場・趣味⇒友人というプロセス。それが恋人の条件との違いなんじゃない。恋人とか好きになる人って、「この人好き!」⇒共通のもの探し、みたいなプロセスを踏むでしょう。そりゃもちろん職場とか学校とかいう共通の場があって、そこで出会って好きになる、ということはある。けど、多くの人は、共通のものがあるという理由でその人を好きになってるのではない。全然共通するものがないのにもかかわらず、好きになってしまう、ということはよくあるものです。

だから、好きな人と別れると、その間にあるものが一瞬にして消えちゃうから、また会おうと思っても「私寂しいアル、会いたいアル」とかなんとか偽中国人訛りみたいな茶化し具合でしか、会いたいことを伝えられない。gくんは「そして本当に好きな相手には、コンテンツの有無は関係なく、あなたの言うとおり、「また会えればよい」とだけ願うものでしょう。それで十分だ。」とかなんとか言っちゃうけど、そういうのってデリカシーないんじゃないのーと間延びした声でつぶやいてしまう。「また会いたい」って願うだけじゃ、「会えない」んです。

俺が友達をすぐに好きになってしまうのは、おそらくその人それ自体が好きなんじゃなくて、俺と友達を囲んでいる共通の場が好きだからなんだろうと思う。共通の場にいて俺じゃなくて、そこにいる誰か別の友達におちょけているあなたが好きだ、俺はそういうことをよく思う。 俺と二人きりになったときの君は、とても冷たくそっぽなんか向くからさあ。

Communication breakdown,
Its always the same,
I'm having a nervous breakdown,
Drive me insane!