自己啓発日記など。

僕が嫌いなのは「頑張る」「目標」「進歩」「成長」「達成感」とかいう言葉自体なのだと最近分かりました。いや、そりゃね、頑張ることは大事だし、人生の意味も考えますよ。成長せんより成長したほうがいいです。けどね、それをどう表現するのか、どう言葉にするのか、というところは大きな分岐点をなしてるんじゃないか。例えば「生きるってなんなんだろう。もっと自分を追い詰めて、高いところを目指さなきゃ!もっと成長したいから」とかなんとか言うことについて、僕は胡散臭さとか、嘘くささとか、欺瞞とかを感じざるを得ない。ここで、仮に、「成長」「人生の意味」「役に立つ」「頑張る」「目標」「高み」とかいう語群を、《自己啓発クリシェ》と呼ぶことにします。
 では、どうして《自己啓発クリシェ》に欺瞞を感じるのか、ということですが、それは循環論的になりますが、その言葉がクリシェだからです。おそらく《自己啓発クリシェ》を使っている人たちは、自分の使っている言葉がクリシェだということに無自覚なのでしょう。あるいは英語的な意味で、彼らはnaiveなのでしょう。クリシェというのは、使い古された、紋切り型の、陳腐な表現ということです。mixiの日記やなんかで、「努力して自分を成長させたい、新しいことに挑戦して、もっと進歩したい」とかいう「自己啓発」を書かざるをえない、あるいは書きたいと思った、ということは、漠然と本当にそう感じたからなのでしょう。自分が独特に感じたある種の気持ちを表現したい、伝えたいと思ったのでしょう。〈わたし〉が感じたことは、本来的な意味で、〈わたし〉だけのごく特殊で個別なものです。何かを経験してそれによって引き起こされた感情というのは、「〈わたし〉だけ」のものです。言葉を重ねますが、その感情なり印象なりは特殊で、一般化不可能な、〈わたし〉自身の根幹に関わるような、〈わたし〉=〈だけ〉のものです。
 しかし、その〈わたし〉=〈だけ〉に関わる心象を表現する段になって、クリシェ、特に《自己啓発クリシェ》が使われれば、心象が帯びる〈わたし〉=〈だけ〉の特殊で個別な性質は打ち消されてしまう。ここに僕が感じる欺瞞があります。《自己啓発クリシェ》を使って書かれた文章を読むとき、僕は、こう感じざるを得ません。筆者は本当に自分で心からこういうことを思っているのだろうか、むしろこういうことを書いておけば自分が正直で進歩的で誠実で「頑張っている人」に見られるんじゃないだろうか、と打算的になっているんじゃないか。つまり、この文章は、筆者自身の個別性を何も伝えていない、それは筆者自身のものではない、嘘臭いものだ、欺瞞だ、と感じるということです。クリシェが、使い古された、よくある紋切り型の言葉であるということは、つまり、クリシェによっては、自分だけ、〈わたし〉=〈だけ〉の心象を表現することは不可能だということです。クリシェは世間一般の人が用いる手垢にまみれた表現にほかならない。そのようなクリシェによって〈わたし〉という特殊で個別なものを伝えることはできません(もちろん言語というファルスを使うということで〈わたし〉というものは常に打ち消されますが、それは程度の問題でしょう)。クリシェについて、少し分かりやすい例を出してみれば、「アフリカの飢えた人を助けなければならない」とか「戦争反対!九条護憲!」とかいう言葉は、代表的なクリシェです。これらの言葉を例えば街中で聞いたときに、あるいは大学の構内の看板で見たときに、本当にあなたは、実感を持ってその言葉を感じることができるでしょうか。「ああ、またこういうこと言ってる人おるわ」くらいの気持ちになってしまうのじゃないか。専門的な言葉を言えば、クリシェとはシニフィアンが過剰な状態なのです。シニフィエが無くとも存在できるのがクリシェです。
 〈わたし〉=〈だけ〉の特殊で個別の感情、ある経験をして自分が本当に感じた「重要なこと」は、《自己啓発クリシェ》という、誰にでも「ああ、あれね」と分かり、誰でもが用い、誰でもが理解可能な表現によって、まったく否定されます。《自己啓発クリシェ》を用いる・用いざるを得ないときというのは、きっと〈わたし〉が本当に何かを感得したときなのでしょう。「自己」を「啓発」しなければならないときというのは、往々にして自分にとっての危機か、あるいは何かしらの大きな意志を持ったときなのでしょう。しかし、《自己啓発クリシェ》を使ってその気持ちを表現するや否や、その気持ちが持つ「〈わたし〉=〈だけ〉」性は破壊されます。自分が大事だと思った感情、自分にとって大切だった心象は、それが自分だけに由来するものであるがゆえに、重要であったはずです。しかしクリシェを使えば使うほど、自分という特殊性から遠ざかっていかざるをえない。
 きっと、多くの人は、自分が《自己啓発クリシェ》を使うことに、ためらいがないのでしょう。そして僕はきっとそういう無自覚でnaiveで、安直で素直な文章を読むたびに、この上なくイライラし続けるでしょう(この辺は大いに皮肉を込めて言っています。もちろんそれがずるいということも知っています)。けど、別に、それはそれでいいです。僕がイライラしたところで、特に問題はないです。ただ、《自己啓発クリシェ》を使ってなにかを僕に伝えたいのだとしても、その何かは僕には届かないというだけです(もっと言えば誰にも届いていませんが)。