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最近めっきり寒くなってきて、コートのポケットに入った煙草をいじくりながら街を歩いていると、なんだか東京に行ってもいいのかもしれないという気分になっています。東京に行ったら変わることばかりだから、きっと僕も変わるのでしょう。陽水の声で「それはいいことだろう」と歌ってみてもいます。長く居たところを離れるのはいつも億劫だしセンチメンタルな気持ちになるけれど、どっちみち人も場所もそのままではない。昔の僕は、独り暮らしすることに憧れて京都に出てきたのだけれど、最近はなんだか誰かと「家族ゲーム」したい気分になっていました。しかし、東京に行けば、もう一回、「独り暮らし」することになります。そして、何度でもやり直せるし、いつだって自分でいられるのだと思います。カトーの言葉「独りきりでいるときが最も独りではない」をノートに書き付けてみてもいるのです。自分と誰かの気持ちをいつも非対称だと思ってしまうほどに、卑屈な人間になってしまったのだから、いっそこの生温いところを捨てなさい。誰にも心は通じないと高校のときは考えていたのに、今の僕はなんだか誰かと心が通じ合える、そんな誰かがこの世の中には居る、こういう風にあてもない幻想を抱いて、冬の街を枯れていくのです。そんな期待を抱くから。

とはいえ、東京に行くためには、院試をがんばらねばならんのですが、何をどう勉強して良いやら皆目見当がつかず、当惑しているしだいです。本でも読めと、そういうことなのでしょうが。


ところで、誰かに長い手紙を、それもワープロで打ったものではなくて、下手なりの手書きで、書くというのが、しばしば僕を虜にする想いであったりします。そして、その誰かと手紙を通して長く交際する、そういう人との関わり方・付き合い方というものに憧れてきました。しかし、僕にはいまだそのような友人があるわけじゃない。これから先、そのように悠長な交際を続けてくれそうな友人を見つけるということができるだろうかと、不安になります。長く、長く、便箋を何枚も使って書くような、そういう伝えたいことを持つ相手などは現れはしないだろうとも思います。


朝の七時まで寝付けずに起きてしまった人間は、いったいこれから寝るとして、誰の・どのような夢を、裏書すればいいのでしょうか。甘美で憂鬱な、廃墟にすすり泣く裸の女たち。その女たちの中央には、死につつある僕自身が臥せていて、泣くことはない、これは夢なのだから、と言っている。そういう夢を見ることができるというのでしょうか。僕は徹底して文学的なるものに憧れを持ち、それについて語り合う人をずっと探しているような気さえします。それを僕自身が眠り見る夢の中でさえかなえられないのであれば、まして現実には期待しようもないのです。