09読書日記84冊目 『不平等社会日本』佐藤俊樹

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

前から読みたいと思っていた新書。初版は2000年であり、もう九年前の話ではあるのだが、本書は明らかに00年代を覆っていた閉塞感を告げた一冊であろう。序章から二章くらいまではデータ分析ばかりであまり面白くない。三章から四章「「総中流」の落日――自壊するシステム」にいたって、ようやく面白くなってくる。特にこれは大学生が読むべき本だと思う。
ホワイトカラー上層部、管理職につくためにはある一定の学歴が必要とされ、その職につくこと自体が「成功」だとみなされる。それ以外のブルーカラー組が「成功」するためには、自営に転じるか、なんとか管理職へと転進する努力をするしかないが、バブル崩壊以後の日本社会において、その可能性は極めて低い。上昇への手段が「学歴」によるしかなくなった社会、親も高学歴・管理職である場合により上昇の可能性が開かれる社会、それこそが「不平等社会日本」なのであった。
新自由主義と呼ばれる一連の業績・実績中心志向は、個人の人生に自己責任と言う名前の重荷を押し付けてきた。それ自体を悪く言うことはできないだろう。自己責任の論理は、人間が生きていくうえで基本的な事柄ですらある。しかし問題は、学歴と管理職を持った家庭に生まれたものは一層学歴と管理職と言う成功を手にしやすく、持たざるものはより持つことが難しくなる、成功できなくなるという社会にあって、実績と自己責任の論理を喧伝することである。上昇への機会が不均等であるとしかいえない状況で、「勝者」が実績と自己責任を喧伝することは、自らの「成功」が実績ではなかったということを隠す蓋になってしまう。
〈私〉はたまたま学歴を持ち管理職を得た父親の下に生まれたのであり、持たざる家庭の人々に比べて、明らかに有利なスタートラインにたっていたのである。その偶有性を直視しないままに、例えば学歴を自己批判し、自らの選択の責任から逃れたり、あるいは自らの「成功」が完全に自分の実績であるように驕り高ぶる人々が、現代の「勝者」なのである。
本書は、大学生にこそ読んで欲しい。僕は、東大生や京大生が、「東大・京大だから勉強しかできず、社会的には馬鹿だよ」と言う風に自己批判(というより自己戯画化)することに相当の嫌悪を感じる。そういった自己否定は結局、東大・京大に入れなかった「負け組」を見下して、自らの偶然性を省みないということしか意味しない。東大生・京大生であるから、僕らはエリートとなってしまったのである。それはまぎれもない事実だ。しかし、それを自己批判することでも、そこに驕ることでもなく、ただ自らの選択と結果があらゆる社会の不平等な機会に支えられていることを、認識し続けるしかないのである。そして、自らの立場でしかできないことをただやっていくしかないのではないか。

あとがきの父親とのエピソードもなんだかすごく良い。

208p
総計28534p