09読書日記88冊目 『日本の無思想』加藤典洋

日本の無思想 (平凡社新書 (003))

日本の無思想 (平凡社新書 (003))

うーむ。以前『敗戦後論』を読んだときにはすごく共感を覚えたのに対し、今回はいまひとつ。『日本の無思想』の原点を、タテマエとホンネという日本独自の言説の軽薄さに求めて、そこから公共性論を練り上げている。

タテマエとホンネは相補的な関係にある。ホンネとは口に出しては言わない本心なのであって、タテマエは口に出されてしまった言葉である。本心から発せられた言葉であっても、タテマエ/ホンネという日本的な言説空間では、その言葉はすぐにタテマエ=表面的な言葉に変貌可能であり、言葉の裏側に「きっとホンネがあるのだろう」とみなされる準備ができてしまう。加藤はソシュール的には語ってはいないが、これを言い換えるならすなわち、日本的タテマエ/ホンネ空間で、あらゆる言葉は前言撤回・修正可能な表層となり、シニフィアンシニフィエは分断され、シニフィアン(言葉)はシニフィエ(本心)を表徴することを停止するのである。言葉は発話者を表徴することはなく、言葉の裏側に「ホンネ」が存在するのだということが日本人すべてに了解されている。「ホンネの共同体」と加藤が呼ぶところの日本的言説空間では、しかもその「ホンネ」さえ、言わずもがな人々には理解されうるのである。とすれば、このホンネもタテマエの裏側にある相補的なものであるがゆえに、両者は入れ替え可能である。このように突き詰めて考えていけば、タテマエ/ホンネの言説空間を支配しているのは、本心も本心ではない、言葉は何も意味しない、といったような「どっちだっていいや」というニヒリズムなのである。

ここまでは至極納得できかつ面白い議論である。もちろんこのニヒリズムの極地から、加藤の見方を転倒させれば、浅田彰の言うような「差異の戯れ」へと行き着くのは明らかである。そこではホンネは問題とされない。ただタテマエとタテマエの間にある差異こそが問題となるだけである。しかし、日本的な問題は、浅田のように徹底した明るいニヒリズムへとは至らず、あくまでタテマエとホンネを相補的に捉えるところにこそ存在しているのである。とはいえ、加藤は浅田のような戦略をとらない。彼は言葉が確かに発話者の本心に裏付けられていなければ、言葉は機能を失うであろうと言うのである。言葉は信念から発せられている、という視点がなければ、思想などはおよそ不可能だと言うのである。僕はこの点に不満を感じる。そして、加藤がそこから近代の公共性論へと分け入っていき、さらに僕の不満は高まってくる。

加藤によれば、近代になってアレントが言うところの「社会的なるもの」が勃興したとき、言葉は信念に裏付けられたものであることを止めるのだという。公的領域が消滅し、単一性が支配する社会的なるものが公私の区分を曖昧にしつつ全体を覆うと、発語の意味が消滅するのだというのだ。「そこでは、じつは人が考えるということは、いわば内面で完結しうることで、それを他の人に伝えることは、二義的なことだとみなされる」。しかし、加藤はアレントの公共性論を認めつつも、彼女の議論には看過されている点があると指摘する。それによれば、アレントは一方で近代なるものがおよそ社会的なるものの勃興とともに始まったと論じながら、その基底にある私人の私利私欲=欲望・利己性の力を看過している。近代啓蒙思想家(マキアヴェリホッブズ、ロック、ルソー、ヘーゲルマルクス)は、私人の欲望と公的領域の葛藤をこそ問題圏に捉え、むしろその欲望の上に公的領域を立ち上げようとしてきたのだ、と。アレントは公共性から私利私欲を放擲し、複数性の領域を守ろうとするが、むしろなすべきことは、私利私欲に敵対するのではなく、私利私欲を足場にして公共性を作り出さなければならない、ということなのである。

しかし、それではあまりにも市場・行政システムの大々的な勝利を見過ごすことになりはしないだろうか。そしてそもそもどうして公共性が必要なのだろうか。言葉はどうして意味を持たねばならないのか。なぜ思想が存在せねばならないのだろうか。これらの問いに対する答えは、そして問いそのものさえ本書の中にはでてこない。第一部・第二部にはおおよそ学ぶべきところは多くあった。しかし、その冗漫な第三部は政治思想史の伝統的な問題圏を甘噛みしているだけにすぎないし、それこそマルクスを引用しながらもその資本主義の捉え方を都合のいい風に解釈している。『ユダヤ人問題について』の解釈も、釈然としない。第四部への展開に向けて、第三部が必要であったのかは全くよくわからない。むしろ第一部・第二部・第四部だけで構成されていたほうが、『日本の無思想』を批判し、それでもなおかつその無思想的な風土から「思想」を立ち上げるにはどうすべきか、というところが明瞭になったのではないだろうか。

296p
総計29864p