09読書日記92冊目 『暴力に逆らって書く』大江健三郎

大江健三郎と11人の世界の著名人との往復書簡集。ギュンター・グラスに始まり、ナディン・ゴーディマー、マリオ・バルガス=リョサスーザン・ソンタグアマルティア・センノーム・チョムスキーエドワード・サイードといった、そうそうたる顔ぶれである。1995年から2002年までの間に、日本という極東の一国の文化人と、世界中の知識人との間に、これほど密な書簡が交わされた、ということにそもそも畏敬の念を払ってしまう。大江も言うように、彼がノーベル賞をとったことによって、これほどのコミュニケーションが成り立つのであれば、ノーベル賞も捨てたものではないかもしれない。

「暴力に逆らって書く」というタイトルが示すように、手紙の話題は時事的な問題、特に政治と文学のかかわりを中心に展開されている。大江の政治音痴は左右様々に揶揄・批判されてきた通りなのかもしれないが、彼の手紙はそれほどに「音痴」なのではないように思う(もちろん大江の戦後民主主義的な「民主主義」観は、政治思想プロパーからしてみれば物足りない)。日本で言えば小泉政権下の元、ネオ・リベラリズムがネオ・ナショナリズムと手を携えて闊歩しつつあった時期であり、世界的に見ればアメリカではブッシュ政権が誕生し、イスラエルパレスチナの問題、イスラムの問題、そして終には9.11の衝撃が世界を脅かしていた時期である。大江も世界の知識人たちも、彼らはともに「希望」を語ろうとしているのだが、しかし安直な純粋主義ではなく、常にその希望が本物なのかどうか懐疑の眼を光らせてもいるのだ。彼らの手紙は、豊かで博識な知と独特の感受性が織り交ざって、読むものを惹きつけてやまない。大江は基本的に自らの主張を行うというよりかは、文通相手の意見をうまく引き出すインタビュワーに徹している(もちろん彼自身もユーモアを交えた文学の言葉で語りながら)。そして、それに答えるようにして返信される世界の知識人たちの手紙がすばらしい。大江の小説に親しみ、そして大江とともに財産として持つ文学と教養のバックグラウンドを遺憾なく引き合いに出しながら語る彼らは、どれも僕らに、政治的・文学的な希望の視線を持つように促すものである。

四十年代にエルサレムで少年時代を過ごした私は、ナチススターリン主義者、イスラム教徒、反ユダヤ主義者たちと、世界中で私たちを殺そうとしているという意識が充満する状況で育ちました。大人になったら、本になりたい――本を書く人でなく、本になりたいと思っていました。人はすぐに殺されてしまう。本も燃やされる。でも一、二冊は、ヘルシンキか、もしかしたら教徒か、どこか遠い国の図書館で行き続けるかもしれないと、思ったのです。(アモス・オズ、1998)

ファシズムは現在、隠喩になったと思います。私はこの言葉を隠喩として、あるいは厳密さを欠いたかたちでは使いたくありません。〔…〕文学の責務は良心と道義的な覚醒に向けて、不正に対する憤りと被害者に寄せる共感に裏打ちされた敏感さの拡張に向けて、目覚ましのベルを鳴らす工夫をすることです。そういう文学の責務を、私たちはふたりとも引き受けています。〔…〕いまの堕落した文化のあらゆるものは、現実を単純化するよう、叡智を嫌悪するよう、私たちを手招きしています。私は作家に、そのひとりとして自分自身にも、ものごとについての複雑な見方を明晰に言葉で述べることを期待しています。もっと大きな共感をもつよう、鎮魂の姿勢を整えるよう、そしてエクスタシーをたたえるよう、駆り立ててくれることを。(スーザン・ソンタグ、1999)

この往復書簡にあわせて、私が機会をもとめては国外に出て聞きとろうとした知識人の声には、さまざまなトーンのちがいこそあれ、共通する確信がありました。それは「近き未来は困難であり、暗いが、遠い未来では解決可能であり、明るい」というものです。(大江健三郎、2002)

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総計31583p