09読書日記94冊目 『限りなく透明に近いブルー』村上龍

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

実際、おそらく僕が村上龍を最初に手にとって、そしてそれ以来全く読まなくなっていた理由は、酒やらドラッグやら、黒人のペニスやらの記号が、僕に全く意味を持たなかったからだろう。と言うより、それらの記号と、僕の一人称で語られていながら、その一人称が限りなく三人称に漸近していく文体が、僕に何らの興奮を与えなかったばかりか、むしろ読み薦める気持ちを萎えさせて言ったからだとも言える。それもそうだ、僕はその当時、おそらく中学一年生かそこらだったはずだから。

あれから何年経っただろう。8年近く経って、暖かな風呂の中で、古本屋で買ってきた黄ばんだ『限りなく透明に近いブルー』の、騒乱と喧騒に満ち、ハシシの焚かれた部屋の中で、黒人と日本人が入り混じりながら繰り広げる乱交のシーンを読めば、むしろ中学生の時に抱いた、捉えがたく遠くにある世界というイメージは、あからさまに形を変えて僕に迫る。主人公と女たちと黒人たちが、まるで打楽器が加速する変拍子のリズムで打ち鳴らされるアフリカ音楽のように、互いの肉を肉で叩き合いながら痛みと快感の境を行き来する乱交パーティのシーンを、僕はどうしようもなくウブで虚ろでか弱く、幼いものかと思ったのだ。実際、主人公のリュウは、「いかせてくれ」と悲痛な叫びをあげながら、それにはヴォイス・オーヴァーで、「殺してくれ」というダブル・ミーニングを訴えている。そしてその「いかせてくれ」に、幾分場面が先へ進んでケイが言い放った「あんたね、死にたかったら一人で死ぬのね」がエコーのように響き合う。いや、実際に、ケイは言い過ぎているのだ。「一人で死ぬのね」は、余計なのである。どういうことか、急いで付け足さねばならない。ケイは当たり前のことを、つまり現代社会という牢獄に囚われた人々が暗黙のうちに薄ら薄ら感づいていることを、余りに開けっぴろげに言い放ったのである。王様は裸だ!とでも言うように。

ケイの言葉、そしてヨシヤマの自殺未遂、あるいは最後「僕」が眩暈を覚えながら過去と現実を行き来し、巨大な「鳥」の影におびえるというシーン。これらはただ、言いすぎているに過ぎない。彼らの放蕩と淫蕩は、結局のところ、今風に言えば「自分探し」に過ぎなかったのだ。そして、それらにつづく気のめいるような死のやり取りも、もちろん「自分探し」を無理やりに完結させる道具に過ぎない。「僕」も含めて登場人物たちは、「自分探し」が失敗に終わるであろう事も、お互いがお互いを求め合う素振りをしながらも相手を受け入れられない以上自らをも受け入れることができないということにも、うすうす気付いていながら、なお気付いていないふりをして乱交パーティとドラッグに高じ続けなければならなかったのである。それが、すべてが管理された現代社会のゲームのルールなのだから。

「僕」は大きな黒い「鳥」におびえる。しかし、それは見てはならない、唯一の真実だったのである。「僕」はその鳥を見た以上、もはや「自分」を忘却しつくして、ゲームに没頭することはできない。それ以来、ずっとほんものの「僕」を、本当の自分を、そんなものはどこにもないにもかかわらずあたかもそれがあるように、探し続けて一生を終えるしかないのだ。

165p
総計32132p