09読書日記95冊目 『戦争の罪を問う』カール・ヤスパース

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)

戦争の罪を問う (平凡社ライブラリー)

罪の問題は他からわれわれに向けられる問題というよりは、むしろわれわれによってわれわれ自身に向けられる問題である。(p46)

ナチス・ドイツ第三帝国下において、ドイツ国民は政治的責任を負わねばならなかった。しかし、彼らはナチスという根源悪が支配する政治空間の中で、常に道徳的・形而上的罪を負いうる環境にあったこともまた事実なのである。ヤスパースがすごいところは、ナチスの罪を指導者が負うべき刑法上の罪と、国民が負うべき政治上の罪を区別し、その上で、実質的政治的な補償と道徳的・形而上的な贖いの方途を探った冷静さにある。加藤典洋が解説を担当しているが、彼の著作を読んできた者にとって、『戦争の罪を問う』においてヤスパースが、一方で(政治上)ドイツ人として、(人倫上)人間として、思考しようとする「ねじれ」の立場は分かりやすい。
肝要なことは、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法のような、敗者の側の「大逆転」=真の自由への帰路なのである。罪を負い穢れた状況の中にこそ、普遍性という清めが宿っている。
しかし、とはいえ形而上的な罪は分かりにくい。

そもそも人間相互間には連帯関係というものがあり、これがあるために人間は誰でも世のなかのあらゆる不法とあらゆる不正に対し、ことに自分の居合わせたところとか自分の知っているときに行われる犯罪に対して、責任の一般を負わされるのである。私が犯罪を阻止するために、自分でできるだけのことをしなければ、私にも罪の一半がある。〔…〕このようなことの行われた後でもまだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるのである。(p49-50)

彼はさらにこうも言っている。

形而上的な罪を最も深刻に意識するのは、ひとたび絶対的な境地に達し、しかもこの境地に達したがゆえに、むしろこの絶対的心境をあらゆる人間に対してまだ発動させていないという自己の無力さを感じさせられた人々である。(p51)

形而上的な罪の結果としては、神の御前で人間の自覚に変化が生ずる。誇りが挫かれる。内面的な行動によるこの生まれ変わりは、能動的な生き方の新たな源泉となることができる。ただしそれは、神の御前におのれの分を知り、一切の行為をば傲慢さの微塵もあり得ない雰囲気に包んでしまう謙虚な気もちのうちに感じられる拭いがたい罪の意識と結びついた能動的な生き方である。(p55-56)

形而上的な罪とは、いやしくも人間との人間としての絶対的な連帯性が十分にできていないということである。〔…〕ともかくそういうこと〔不法や犯罪〕が行われ、しかも私がそこに居合わせて、そして他の人間が殺された今もなお私が生きながらえているという場合には、私がまだ生きているということが私の罪なのだということを私に知らせる声が心のうちに聞こえるのである。(p110-111)

おそらく、ここで言われている、人間の連帯に関する形而上学的な罪は、〈わたし〉が〈あなた〉であったかもしれない、〈わたし〉は〈あなた〉のように殺されていたかもしれないのに〈わたし〉はまだ生きているのだ、というような、偶有性の感覚に根ざすものであろう。おそらくこの〈わたし〉も〈あなた〉で〈あったかもしれない〉という偶有性は、一度人倫の連帯が破壊された後でなければ理解されえないことであるのだろう。つまり、不断何気なく暮らしている日常には、この種の偶有性の感覚、そして人間の連帯という実践は、意識に上ってこないのであり、何らかの形でその連帯が廃絶されたことが明らかになってはじめて、それらは強く意識されるのであろう。そのときの意識の形こそが形而上的な罪なのである。そして、ヤスパースは適切にも、〈わたし〉が〈あなた〉であったかもしれないという偶有性の中から、つまり形而上的な罪の内部から政治的な自由が、公共性が可能になると論じるのである。
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