'10読書日記10冊目 『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

217p
総計2590p
久しぶりに読むフーコー。僕の中で、にわかにbio-politics熱が高まってきたので(多分、遠因は稲葉振一郎本、近因はアガンベン)、「日本の古本屋」で三冊まとめ買い。200ページかそこらしかないのに、じっくり読まざるをえなくて、割りに時間を食ってしまいました。というのも、フーコーの議論って、あらすじが見えにくいんですよね。『言葉と物』なんかは本当にうぎゃーって叫びながら読みました。この本も、議論や概念の諸前提が行きつ戻りつしていて、錯綜しています。ただ、あんまり何言ってるのかよく分からないが、カッコイイ!んだよねー。その辺がミソなんか。渡辺守章氏の解説は、フーコーへの思いが感じられて良いです。僕も同時代に生きたかったな。

内容的には、もちろん生政治、生権力(環境管理型権力viaあずまん)ということが現代思想業界では重要なのでしょうし、まあそれは認めてもいいと思うんですが、その際に、フーコーが意図していたことがあまりに見失われているんじゃなかろうかとも思いました。フーコーは規律-訓練型/環境管理型と二つの権力を近代から分析・摘出するわけですが、それはセクシュアリテ(性的欲望)のディスクール分析とバーターだったわけです。そしてセクシュアリテと権力の関係を暴きだすそもそもの目的は、両者の共謀によって先向的に規定されていた性sexeの枠組みを、解放することでだったのでした。「セクシュアリテの装置とその作動によって必要なものとされた理想的な点の一つにすぎない」性は、自らが何者であるのかというアイデンティティと深く結びついています。この〈性=主体自身〉という幻想から解放され、「身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめ」るために、「セクシュアリテという全般的な装置の脈絡を追」ってきたのです。「セクシュアリテという策略と、そしてその装置を支えている権力の策略」を明らかにし、「いかにして我々を性のこの厳しい王制に服従させて、我々をして性の秘密をこじ開け、この暗がりの中から最も真実な告白を強奪するという際限のない務めに身を捧げるまでに至らしめたのか」分析することが、目的だったわけです。言うならば、生権力は二の次のものでした。ところが、現代思想界隈で、本当にこの性の問題が適切に論じられているのかといえば、僕の知る限り、どうもそうではないらしい・・・と思うのです。