'10読書日記14冊目 『わたしたちに許された特別な時間の終わり』岡田利規

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

184p
総計3501p
大江健三郎賞を取っていて、僕は劇作家・岡田利規の名前を知った。そして僕はこの小説を読んで、すっかり岡田利規ワールドに魅了された。視点が様々に浮遊していて、同じ情景でありながら違った視点から丁寧にそれらが描かれていて、全く自分がどこへ連れて行かれるのか分からないながら、心の中にはしっかりと濃密で忘れがたい気持ちが訪れている。
特に気になるのは「三月の五日間」という中篇。物語は取り立てて何か破壊的なことが起きるというわけではない。イラク戦争が始まる前、「これから何が始まってしまうか知っていたが、それはまだ現に始まってしまっていたわけでは」ない時間に、アングラ劇団のパフォーマンスを見に来ていた二人の男女が、いきずりながらラブホで五日間をセックスばっかりして過ごす。これだけの話ではあるのだが、日本の、特に大都会の中心である渋谷という、道徳的な規範も、家庭的な紐帯も漂白された場所で、「イラク戦争」の開戦前という時間を世界と共有している、しかも皮肉で退廃的とも言えそうな甘美さをまとわりつかされながら。事実、この小説は政治からのデタッチメントを謳う筋書きでありながら、まったく政治的・批判的な力を持っている。

もうすぐ始まりそうな、というよりも始まることのもう確実なこの戦争についてカジュアルに発言することができたあのパフォーマンスのような場所や雰囲気を、日本人は日本人だけで作り上げることはできない。そんなことは想像できないし、仮に日本人だけの力でそうした雰囲気が作り上げられていたとしたら、そんな作り笑いみたいな気持ち悪さの中には絶対入りたくない。

ここで言及されるパフォーマンスとは、劇中で登場するアングラ集団によるもので、観客と演者が舞台や客席に置かれたスタンドマイクを通して、自分の思うところを練り上げていくというもの――これは大江健三郎『水死』における劇中劇のヒントになったのではないか?――だ。「男」はこのパフォーマンス空間を、どこか外国人みたいだ、と感じている。しかし、そのような批判的で政治的な思考は、タクシーの中で、その場で出会った「女」の太ももをまさぐりながらなされているのだ。肉感的で淫靡な欲情と裏腹な部分から、つまりデタッチメント的な行動から、むしろ政治批判的な思考が生まれている。このような事情を、生ぬるいデタッチメントとして退けることはできまい。なぜなら、反戦デモよりも、もっと親密で内密なところから、この政治的な思考は生まれているからだ。
五日間続けられるセックスは、極めて生物的でありながらそれは快楽原則に従ったものだというよりは、むしろ行為の継続そのものに価値を見出すようなものである。行為の継続そのものに価値を見ること、それはつとにハンナ・アレントが政治的な概念として規定したものだ。男とセックスにこうじる「女」もこのように感じている。

私たちはそのときはまだ、延々とこれを繰り返すつもりだったのだと思う。そして実際――延々、というほどではなかったけれど――三回か四回か五回か、私たちは繰り返した。いつの間にか私たちには、時間という感覚から遠ざかるようなあの感じが訪れていた――時間がわたしたちのことを、常に先に先に送り出していって、もう少しだけゆっくりしていたいと思っても聞き入れてくれないから、普段の私たちは基本的にはもうそれをすっかりあきらめてるところのもの、それが特別に今だけ許されている気がするときのあの感覚だ――それが体の中に少しずつ、あるいはいつのまにか、やってきていた。

この「わたしたちに特別に許されている時間」が終わるのは、つまりセックス続きの四泊五日が終わるのは、イラク戦争が開戦されているであろう現実の政治的な生活である。セックスという生物的な快感原則が重要なのではなく、その快感行為が孕まざるをえない政治性こそが大切なのではないか、という問題が提起されているのだ。実際、女は「セックス」が生物的ではなく政治的であることを、つまり「ウォー&セックス」であることを知っているのであるし、むしろセックスが生物的なものだということ、そしてウォーも同時に大量虐殺の現場、生こそが重要であるという意味で生物的であるということを認識して、おぞましい気持ちになるのだ。女はラブホを出た後、早朝の渋谷センター街を歩きながら、ホームレスが野糞をするためにむき出しにした尻を、犬の尻だと間違える。そして、女は吐き気を催し、渋谷の街中で嘔吐してしまう。

吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ。

僕ら読者は、ここにおいて、彼らのセックスが政治的なもの、極めて反政治的であるものこそ、政治的になりうる、ということを思い知らされるのである。
他に読んではる人
http://d.hatena.ne.jp/harsh/20100112 この小説読解はとても面白いなあ。