'10読書日記21冊目 『アンティゴネー』ソポクレス

アンティゴネー (岩波文庫)

アンティゴネー (岩波文庫)

102p
総計5180p
創作時期は、『アンティゴネ』の方が『オイディプス』よりも早いらしい。確かに後者のほうが技術的には上かも。『オイディプス』も『アンティゴネ』も、基本的に三つの種類の知がせめぎあっている。第一に、オイディプスクレオンがテーバイの荒廃や事件について抱く主権者の知である。主権者というのは統治においてもそうであるが、主体subjectという意味においてもそうである。第二に、その主権者の知を覆し、悲劇を稼動させる真理の知がある。これは盲目の預言者テイレシアスによってもたらされる。そして、第三に、民衆の知である。これは民主主義的に集められるもので、主権者の知にも真理の知にも完全には属さないが、時によってそれらの間で揺れ動く流動的なものだ。

ギリシャ悲劇(といってもソフォクレスのものしか読んでいないが)は、近代文学とはちがって、悲劇を稼動させるものは〈運命〉=真理の知=神の預言である。主権者の知が、真理の知によって覆されるところに悲劇は生まれている。一方、近代文学では、悲劇を担保するのは真理の知であると言うよりも、むしろ民衆の知であることが多いのではないか。

ところで、このようなソフォクレスの悲劇を、アラスデア・マッキンタイアが『美徳なき時代』において鮮やかに描き出している。ソフォクレスの悲劇は「異なる諸徳が私たちに対し競合する不両立な主張を迫るものとして現れるといった、実に決定的な衝突」を提示する。そしてそれを悲劇たらしめているのは、「私たちが両方の主張に権威があることを認めなければならないからである。」悲劇の登場人物は、社会秩序に埋め込まれており、それなしでは何者でもない存在である。しかし、登場人物は社会秩序の中のある場に属しながら、しかもそれを超越するような経験を強いられるのだ。それはまさに、諸徳の衝突に直面し、それらの権威を認めることによってである。この超越する経験は、諸徳の衝突を神へと訴えることによって提示される。つまり、ソフォクレス的な登場人物はみな「ある宇宙秩序が存在し、それが、人間の生という全体的に調和のとれた枠組みの中に各々の徳を位置づける」という前提を共有している。