'10読書日記22冊目 『美徳なき時代』アラスデア・マッキンタイア
- 作者: アラスデアマッキンタイア,Alasdair MacIntyre,篠崎栄
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1993/08/20
- メディア: 単行本
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総計5548p
コミュニタリアンと呼ばれることの多いアラスデア・マッキンタイア。確かに、サンデルの議論と通じるところは多いと思う。サンデルやバーバーにしろそうだが、マッキンタイアにおいても、現状(リベラリズム)分析・批判には面白い論点が盛りだくさんなのに、結論において(雑な言い方をすれば)新しい共同体をつくらなきゃ!みたいなのになって、どうしてもちょっと躊躇ってしまう。近代社会のばらばらさ加減も心地よいのだ。というわけで、マッキンタイアの近代道徳事情についての分析のみを、ここでまとめることにしよう。その解決策については中々承服しがたいものがあるが、現状分析は鋭いものだろう。
マッキンタイアは、今日の道徳言語が無秩序に陥っているのではないか、という不穏な思いつき(a disquieting question)から議論をスタートさせる。それは今日の道徳哲学の主流派である、情緒主義(emotivism)に向けられたものである。情緒主義とは、あらゆる道徳判断は合理的に説明することは出来ず、それらは究極的には個人の選好や態度、感情の表現に他ならない、とするものである。情緒主義は、例えばC.L.スティーヴンソンといった分析哲学者によって主唱され、G.E.ムーアの直覚主義(intuitionism)に根を持つという。また、マッキンタイアは、この情緒主義が近代の社会的内容と相応するものであると述べ、それは審美家、官僚組織、セラピストに代表されるものであることを明らかにする。情緒主義を社会的に体現する近代社会において、操作的/非操作的社会関係の区別は消滅し、近代的個人(アトム的個人)は、自らの道徳的態度を合理的に保持することはない。どのような道徳的判断を下すのか、道徳的態度を取るのかについての基準はなく、人は、キルケゴールが言ったように「あれかこれか」を根源的に選択しなければならず、またウェーバーやサルトル、ニーチェに見られるように超人的な態度を持って価値を選択しなければならない。
しかし、こうした近代的な多元的価値が露わになる時代、何を選択しても個人の自由だ、と言われるような時代は、いかにしてもたらされたのだろうか。マッキンタイアに言わせれば、近代を生み出したものが啓蒙主義であるなら、その啓蒙主義の道徳に対する企てがそもそも首尾一貫を欠いていたために、近代そのものは当初から瓦解の一歩を歩みだしていたのである。啓蒙主義の企てとは、道徳を合理的に正当化しようとするものである。アリストテレス的な目的論的道徳哲学においては、〈未教化の人間本性〉〈理性的な倫理学の教え〉〈自らの目的を実現すれば可能になる人間本性〉という三つの段階が提示されていた。しかし、啓蒙主義はプロテスタンティズムとカトリシズムの神学を拒否したのと同様に、この最後の段階〈最終目的=テロス〉を拒否する。しかし、そもそも道徳哲学(理性的な倫理学の教え)を未教化の人間本性へと結び付けていたのは、このテロスの概念なのであり、したがって、それを破壊した啓蒙主義の試み――道徳哲学を人間本性へと合理的関係付けようとする企て――は失敗せざるをえなかったのだ。さらに言えば、われわれに馴染み深い、啓蒙主義道徳哲学において明らかにされたテーゼは、事実から価値判断は導き出せない、「である」から「べき」を導き出せない、ということであった。だが、それは当然である。そもそもアリストテレスにおいては、事実=自然はすべてテロスを持って存在していたのだから。
そういったテロスを取り払い、神なき時代の有神論を情念に求めたのがヒュームであり、理性に求めたのがカントであり、情念にも理性にもよらず個人の選択に求めたのがキルケゴールであったと言えるだろう。彼らは人間本性が持つテロスを拒絶した。マッキンタイアによれば、人間本性にテロスを与えるのは、共同体が個人に割り振る役割概念であった。近代啓蒙主義は共同体から遊離し自律した個人を作り出したのである。だが、近代社会は、一方でこのような自律に基礎づけられた道徳を逆説的な形で裏切っていくのだ。前述したように、近代社会の個人は審美家であるか、官僚的であるか、セラピストであるかするため、他者との操作的関係に自分を巻き込むような実践に参加せざるを得ないのである。自律は掘り崩されるのだ。それゆえ、どうして近代において権利の概念が重要になるのかが見て取れる。そもそも自然法に端を発する人権・自然権などは存在しない。しかし、なおもそのような想像上のものを訴えねばならないのは、功利性を中心にした社会が人々に審美家・官僚・セラピストであるように強制するからである。「官僚制的個人主義の文化」とマッキンタイアが呼ぶ近代に特有の現象は、「諸権利に基づいて主張される個人主義と、功利性に基づいて主張される官僚制的組織の諸形態との間の論争」なのだ。功利性が重要になるのは、それが基本的には人々の関係を〈目的‐手段〉において把握するからである。官僚機構において重要な位置を占める専門知は、こうした功利性に基づいた効果的な手段に精通している人が持つ知であるとされている。しかしながら、こうした功利性さえ、諸権利と同様に虚構のものだと言わねばならない。というのも、功利性‐専門知がよってたつところの社会科学の法則性なるものは、ありえないからである。全てこの世の事象は予測不可能なものであるにもかかわらず(昨今の〈リスク〉社会論と絡めたりしたら面白そうと、個人的には思った)、官僚制機構の専門知は予測可能性を謳い文句にする。ここに、近代社会の首尾一貫性のなさが、最大の形で露呈している。
このあと、マッキンタイアの歴史的な徳の分析があり、実践と内的な善の関係、人生が一つのナラティブであるという統一的な見解、歴史と共同体に埋め込まれた個人、論争的な伝統の概念、などを展開していく。それはそれでいいのだが、やっぱり最後に「すでに到来している新たな暗黒時代を乗り越えて、礼節と知的・道徳的生活を内部で支えられる地域的形態の共同体を建設することである」って言っちゃうところが、ちょっとついていけないのであった……。