'14読書日記11 『道徳哲学講義』アドルノ

道徳哲学講義

道徳哲学講義

三つのヘーゲル研究 (ちくま学芸文庫)

三つのヘーゲル研究 (ちくま学芸文庫)

『三つのヘーゲル研究』が非常に良かったので、アドルノがカントの道徳哲学を講義した『道徳哲学講義』も読んでみた。結論として、非常に良いカント入門書――というかひとわたり入門書を読み終えた人が最後に読むべき入門書――となっていると思う。『啓蒙の弁証法』から入ってアドルノの晦渋さにうんざりした後にこの講義を読めば、ハツラツとした分かりやすい語り口(訳者の努力の賜物だろう)に嬉しくなってくるほどだ。講義は十七回におよぶが(週に二回行われている)、毎回、最初で前回の講義を振り返り、総括して次の問題点につながっていくので、とても親切だといえるだろう。最終盤でカントの定言命法は結局心情倫理にほかならず、それを無心に体現することが悪につながりうることを、イプセンの『野鴨』から引いてみせたりして、具体性を持って議論されているのも楽しくなってくる一つである。心情倫理、と書いたので付け加えておけば、アドルノは決してカントの心情倫理が責任倫理を欠いているとして批判しているわけではない。むしろ責任倫理は実生活の倫理・慣習を前提としているがために、現実肯定的な倫理に堕してしまうことを指摘し、心情倫理でも、責任倫理でもない、別のありえる倫理のあり方を模索しようとしているのだ。
講義全体を見れば、アドルノは、『純粋理性批判』における実践理性の優位を確かめた後、実際に『道徳の形而上学の基礎づけ』、『実践理性批判』へと進み、自由が法則である、道徳法則こそが自由である、というカントの――入門書では割りと当たり前なふうに書かれがちな――テーゼがいかに際立って不思議なものか、それがどれほど哲学的に厄介な問いの核心に至っているかを、講義を聴講する生徒たちと考えていく。カント研究者によるカント入門書は、いかにして「我らがカント」を凡百の人らに教えるか、好きになってもらうか、という調子に陥りがちになるのに対して(それが悪いことだとは言わないし、実際にそうした本を読んで、カントを読もうという気になることもある)、アドルノはカントの身振りに対して批判を隠そうとはしない。しかし、アドルノによって提出された批判や疑義は、カントに再び立ち戻り、その問からカント全体を問い返そうというような気にさえさせられる。アドルノはカントの道徳哲学を考察する中で、現代の問題――とりわけfalschな社会において、正しい生活がありえるのかという問題――を考察する手がかりを最後に提示するが、取ってつけたような「現代的意義」の強調ではなく、ヘーゲルニーチェ全体主義大衆社会との関連のなかでカントの問題を抽象化した形で取り上げてみせるもので、その手つき、講義ぶりには惹きつけられるものがある。
アドルノの啓発的な指摘のなかで、特に唸らされたものとして、カントにおける理論理性と実践理性の扱われ方の違いをめぐる議論がある。第一に、『純粋理性批判』の自由と因果性をめぐる第3アンチノミー――世界には自由を原因として形成される現象の系列があること、世界の一切は因果性に規定された現象の系列でしかないこと、この両者の争い――において、カントは、どちらも経験的認識を超えたものであるとして、言わばその争いを打ち切ってアンチノミーを解決・調停する。カントによれば、理論理性には経験を超越して全体を目指そうとする自然的な性質があるのだが、その点からすれば、カントのアンチノミーの解決は、その理性の要求、理性の自然的性質を切断してしまう。第二に、こうした理性の自然的性質は、実践理性の議論のなかでは、「道徳的事実」を示すものとして扱われる。カントによれば、道徳法則が存在すること、良心が存在すること、これらは理性的な存在者としての人間にとって自然、所与のものであり、疑いえない。しかし、こうした道徳法則の事実、理性の事実は、あれだけ経験からの超越をモットーにして組み立てられている道徳哲学の構成からすれば、極めて矛盾した印象を与えざるをえない。道徳法則の存在は、形而上学的理念(伝統的には神)によってではなく、事実によって論証されているからである。しかし、カントが首尾一貫しているのだとすれば、ここで言われる理性の事実や道徳法則の事実は、経験的な領域でも、また理念の領域でもなく、従って経験とア・プリオリとの一種の中立地帯として考察されなければならないようなものをなしている。アドルノによれば、このことは

一面において、このような理性の所与性、つまりこれ以上は追求できないもの、換言不可能なものとして理性の所与性を意味します。他面、その他の経験におけると同様この理性及び、理性の合法則性も直接捉えることができると推定することによって所与性を正当化する試みを意味します。例えて言えば、いわば、ア・プリオリとア・ポステリオリのあいだの無人地帯なのです。

しかし、このような理性の所与性、理性の事実は、カントにとって認識論的関心から探求されるようなものではない。ここでもまた、カントはアドルノが皮肉めいて呼ぶ「ブルジョア特有の契機」、つまり哲学的な議論の切断を行うのだ。つまり、「理性の事実、理性の所与性の認識論的性質、このことは実践には何の関係もないので、ここでは関わりあう必要はない」とでも言うかのように、議論を打ち切ってしまうのだ。このように論じたところで、アドルノは、極めて適切でゆかいなまでに簡便なドイツ観念論の総括を行ってみせる。

ここでこの切断について、一言、二言付け加えたいと思います。第一に、いたるところに現れるカント哲学一般の構造があるからであり、またこれこそ後継者たちが反抗する当の構造だからです。というのもカントとフィヒテその他、後に続く観念論者との間の相違を一つの身振りで表そうとすれば、その対立とは、彼らが、「これは私たちに何ら関わりがありません」というカントの切断に我慢ができず、「あなたが私たちになんら関わりがないというところこそ、私たちに関わりがあるのです」と反論したことです。

こうした切断をアドルノは両義的に評価しているようにみえる。ヘーゲル弁証法と違って、カントの場合、あからさまな二元論の矛盾が、矛盾そのものとして止揚されずに、赤裸々に提示されるのだ。アドルノが限定的否定として、つまり抽象的否定の反対概念として練り上げた方法のモチーフが、カントのこうした切断に見いだせる、のかもしれない。