'10読書日記26冊目 『人間不平等起原論』ルソー

人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

282p
総計6462p

ルソーは前回『社会契約論』を読んでいても思ったが、非常に面白い。好きだ、と言うのではないが、読んでいてわくわくする。最近は、「自然状態」を想定する議論(特に社会契約説)の構造と、その有用性について興味があったりする。ルソーは自然状態をある種の理想として語り、現実の社会の批判の依拠としているが、これはロックやホッブズの自然/社会状態の議論の正反対を行くものだ。疎外論の出発点ともいえそうだが、単純な疎外論に陥らないような何かが、ルソーの中には隠れている気がする。それは例えば以下にも見いだされる。

悪を生み出した同じ原因が、この上悪が増さないようにするために必要となるような、そんな悪が存在する時代がやってきます。それは、傷ついた人に突き刺さった剣のようなもの、ぬきとったら、その人は息を引きとるかも知れないと案じられて、傷口にそのまま残している剣のようなものなのです。(p196)

ここで言われる堕落した社会状態と『社会契約論』との接続はいかなるものか、興味は尽きない。
もちろん自然人の性質を明らかにした第一部は、それ自身で面白い。強調されるのは、人間が持つ生来の模倣能力であり、改良能力だ。それが次第に生活の智恵となり、社会的な悪を生み出していく。ありきたりな文明批判に終わっていないところは、人間の能力という善が悪を生み出すという弁証法的図式にあるところは間違いがない。根本には自然との調和を目指す動機があるのではないか、という邪推も可能だが、ルソーは果たして「調和」を目指したのかどうか、それは上でも指摘したとおりだ。
さらに、人間と動物を分ける点として、動物は自然に本能で従うが、人間は自然に自由に協力したり斥けたりする、と言われているところも面白い。意志する力・選択する力は、自然法則や力学法則ではとらえられない「純粋に霊的な行為」なのである。ここにカントの原典を見出すのはやりすぎだろうか。
また、言語の獲得の歴史についての記述もひどく面白い。『言語起原論』をも是非読みたい。問題になっているのは、観念とパロールの<鶏・卵問題>である。

言語は必要だったと仮定して、いかにしてそれが確立されるようになったか〔…〕人々が考えることを学ぶためにパロールを必要したとすれば、彼らはパロールの技術を見いだすために考えることを知る必要がなおいっそうあった〔…〕そしていかにして音声がわれわれの観念を慣例的に代弁するものと見なされるようになったかを理解したところで、その観念に対するこの慣習をまた代弁するもの自体は、一体なんであるかを知らなければならない〔…〕観念というものは感性的な対象をもたないので、身振りによっても声によっても指示されることは出来なかったのだから。(p61)

また、ルソーは固有名詞と抽象名詞の議論にも踏み込んでおり、当初は名詞は固有名詞の数しかなく、物事は孤立したものとして人々の現前に現れたのだと言う。そして、抽象名詞が現れ、観念が思考されるためには、社会的な制度が必要であったということが述べられる。社会は自然とは違い人々を集合させ社交させるところであろう。ルソーは明確に述べてはいないが、そこで人々は事物や人間同士を比較しあう。ここにおいて類似と差異の概念が生まれ、抽象名詞・観念が誕生したと、ルソーに続けることが出来ないだろうか。そして、興味深いことに、ルソーは人々が自然から社会へと移行するに当たり、人々が自分たち同士を「比較」しあうことで、自尊心(amour-propre)が生まれ、「不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった」と指摘するのだ。
つまり、ここにおいて、社交が比較に基づくこと、そしてそれに触媒されて言語が誕生し、さらに自尊心・不平等が生起するというダイナミズムが描かれるのである。言語と悪徳の相関、さらに言えば、ルソーは美徳さえも言語に帰するときさえある。それはなぜだろうか。「比較」によって、固有名詞の数が抽象化され、抽象名詞=観念が生まれる。ある物事や観念は言葉によって表徴されるようになる。同時に、社会において人々は他人の前で活動し、他人と「比較」され、他者より優越し、人々から尊敬されようと躍起になる。比較の基準となるものは「精神や美しさや体力または器用さや、長所または才能」といった「素質」である。人々は素質を持っていることが尊敬の対象となり、自尊心を満たすということを知るのである。

やがてそれ〔素質〕をもっていることか、または持っているふりをすることが必要となった。つまり、自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。有ること(etre)と見えること(paraitre)がまったくちがった二つのものになった。そしてこの区別からいかめしい威儀と欺瞞的な策略とそのお供をうけたまわるあらゆる悪徳とが出てきた。他方では、以前は自由であり独立であった人間が〔…〕ある意味ではその〔他者の比較の〕奴隷となっているのである。(p101)

表徴と表徴されるもの、シニフィアンシニフィエが一致/乖離の間を揺れ動くところが社会なのである。自然状態では表徴のレベルはありえないがゆえに、存在と表徴は同一視できた。しかし、ここではその乖離が悪徳を生み出す、と言われるのだ。
この小さな本の中にたくさんのエッセンスがあり、本当に「古典」という感じがした。続けてルソーを読んでみようかしら。