'10読書日記29冊目 『時間の比較社会学』真木悠介

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

331p
総計7797p
近代社会の基底にある時間意識を、一つの優れた疎外論を通じて明らかにしていく試み。近代以前/未開の時間意識を抉り出すことから始まり、ヘレニズムからヘブライイズムを経て、近代の時間意識を摘出する。
未開の時間論は文化人類学の知見を多用し、読んでいてわくわくさせられることが多い。いわゆる未開の部族文化において、抽象的な未来などは存在しないということ、これには素直に驚く。また、その別ヴァージョンとして古代〜平安期の日本における時間意識を暴き立てていくところは、本当にスリリングであった。万葉集古今集に詠まれた和歌において、時間と生の扱われ方が本質的に変化していくなど、古典の時間に教わっていたらもっと有意義な勉強と興味がわいただろう。メモ程度に記しておけば、平安期における《出家・隠遁》の文化にもゲゼルシャフト萌芽期の古代日本の時間意識が深くかかわっているということと、フーコーが晩年に興味を示したストア派を比較してみても面白いかもしれない。
近代社会における時間の二重の疎外論の理論的明快さも、もちろん素晴らしい。時間論と疎外意識、あるいは「我信ず」「我考える」「我感ず」といった自我の芽生えをカルヴァンデカルトパスカルモンテーニュ、コンスタン、ヒューム、ルソー、プルーストといった様々の著作から摘出して提示する様もスピード感があってたまらない。近代社会が本質的に、《未来》に縛られたものであること、つまり《いま・ここ》には"無い"もの――例えば神話化された過去・進歩主義的な未来・他者との愛・自然との融和――への疎外を持ち続けたものであるということ、これこそが本書における焦眉である。しかし、その未来の「優位の代償はただひとつ」あり、「それはどのような未来もそのかなたに死をもつということであり、したがってわれわれがつねに、生活の「意味」をその未来にえられる結果のうちに求めつづけるかぎりにおいて、このような生の総体は、とつぜん虚無の深淵に」放擲されてしまうのである。

とはいえ、近代パートの後半の疎外論は、あまりに今ではありふれた議論にも感じられてしまい、少々退屈ではあった。疎外されて何が悪い、と開き直るためには、どのような根本的な転回が必要なのか、その問いだけが残るのである。しかしながら、なかなかに面白い本であったことには間違いがない。『現代社会の存立構造』も読んでみよう。(あい変らず見田宗介真木悠介の使い分けはよく分からないが)