'10読書日記30冊目 『自分自身を説明すること』ジュディス・バトラー

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

p283
総計8080p

何度か『ジェンダー・トラブル』に挑戦しかけたが、そのたびにラカン派の精神分析に行く手をさえぎられて……ということが続いたのだったが、これは講演原稿をもとに書かれたものだからか、比較的読みやすかった。
アドルノフーコーニーチェヘーゲルレヴィナスらを参照しながら、「倫理的暴力」とそれに抗う倫理的可能性に挑んだこの著作は、非常にスリリングで時に鼓舞的でさえあり、近頃停滞気味であった僕を十分に満足させてくれた。

問題となるのは、次のことである。すなわち、社会・権力的布置によって形成された「私」に倫理性・道徳的責任は可能なのか、可能ならばいかなる理由で・いかなる様態でか、あるいは「私」を説明することは可能なのか。

「私」は、倫理的規範や、葛藤を孕んだ諸々の道徳的枠組みという支配的基盤から独立しているわけではない。……この基盤は「私」が出現するための条件でもある。……「私」が自分を説明しようとするとき、自分自身から出発することはできる。しかしその「私」は、自分がすでに、自分自身の語りの能力を超えた社会的時間性に関与していることを見出しもするだろう。(p16)

こうした社会的時間性、あるいは一連の規範への関係によって「私」は形成されている。

「私」はつねに、「私」の出現の社会的条件によってある程度まで収奪されている……これはまさしく道徳的探求の条件であり、道徳性そのものが出現するための条件であろう。(p17)

したがって「私」は常に、いわゆる主体の同一性を保って「私」であり続けることはできないのであるし、仮に何らかの道徳的問いかけに対して応じなければならなくなって「私」自身を説明しようとしたとしても、その言説がそのまま「私」となるわけではないのだ。

もし私が自分自身を説明しようとし、自分自身を認識可能で理解可能なものにしようとするなら、そのとき私は、自分の生についての物語的説明から始めるかもしれない。しかし、この語りは、私のものでないもの、あるいは私だけのものでないものによって方向を失ってしまうだろう。また私は、自分自身を認識可能にするために、私をある程度は置き換え可能なものにしなければならないだろう。「私」という語りの権威は、私の物語の特異性に異議を唱える、一連の規範が持つ視点と時間性に取って代わられねばならないのである。(p66)

このように常に収奪される「私」の特異性、あるいは「私」の同一性を不可能たらしめている事態をバトラーは主体の「不透明性」と表現している。見てきたように、この不透明性は社会的・規範的権力から呼びかけられることによって形成されるのであるが、それよりももっと原初的に「不透明性」が存在しているのだと、バトラーは言う。それは自ら自身が自らに対して抱く「不透明性」である。もちろんこの原初的な不透明性はすぐさま自己内の他者という風に置き換ええるものだろう。バトラーはこれが生起する要因を、ラプランジュの〈謎のシニフィアン〉やレヴィナスの〈他者〉を通じて説明している。しかし重要なことは、こういった「私」の不透明さこそが、私の存在の基盤となっているのであり、それは同時に他者においてもそうであるがゆえに、共同的なもの=倫理的なものを形成する契機にもなりうるということなのである。
しかし、再び記しておけばそのような不透明性を孕んだ「私」の物語は絶えず語られるたびに「私」以外のものになりすましていくという悲劇を背負い込まざるをえないのだ。

私は自分自身について説明するが、その説明が自らの生を語るこの話す「私」の形成に至るとき、そこにはなされるべきいかなる説明も存在しないのである。私が語れば語るほど、私は説明困難であることが判明していく。「私」はその最善の意図に反して、自分自身の物語を破滅させるのである。(p122)

なぜだろうか。それは、「私」の存在の前史をなす不透明性を、適切に語りうる語法・言語が存在しないためであり、逆に言えば、そのような語法が存在し得ないということこそが不透明性の本質なのだからだ。そして、先にも述べたように、そのような不透明性は〈他者〉からの呼びかけによって形成されたものである。分かりやすく言えば、「私」はいかなる性質記述によっても換言できない唯一性を持っているが、それはつねに誰かを参照にして、例えば「あなたではない私」とかいう風にしてしか、立ちあらわれることがないものである。しかも、この「あなた」からの呼びかけに対して、主体は常に受動的であり、「あなた」に無遠慮に《曝され》てしまっている(これはアレントの「曝露」という概念に依拠したものだ)。この意味において、主体は不可避の迫害を被っていることになる。
バトラーがレヴィナスを引きながら言うように、こういった他人への《曝され》が持つ迫害は、「私」が持つ他者への感受性の故に招き入れられてしまうものである。しかし、この迫害を可能たらしめる原初的な他者は、同時に主体の全存在論的な基盤をも形成するものであり、それであるからして、そこには責任=応答可能性が生じてしまう。「私」がもつ他者への感受性は、すなわち責任=応答可能性でもあるのだ。
しかし、この責任とはどういうことだろうか。それは

単に怒りの内面化や超自我の支えである強化された道徳観のことではない。まして、私が言及しているのは、自分が被ったことの原因を自分自身の中に見出そうとする罪責感のことではない。これらは確かに、傷や暴力へのありうべき一般的な応答ではあるが、これらはすべて、反省性を強め、主体を支え、自己充足の主張を支え、主体の経験的領野の中心性や不可欠性を支える応答である。フロイトニーチェの双方がそれぞれ異なる仕方で語っているように、疚しい良心は否定的なナルシシズムが取る形式である。そしてナルシシズムという形式をとることによって、それは他者、刻印可能性、感受性、そして可傷性から撤退する。(p183-184)

自分の中の他者・不透明性を消し去り、自我の主体の同一性を保とうとする試み、すなわち自己保存へのたゆまない欲求は、周知のようにアドルノが『啓蒙の弁証法』で示したことであった。問題は、

自己保存は最重要な目標ではなく、またナルシシズム的な観点の擁護は最優先の心的要求ではない、ということだ。私たちが原初において、意志に反して侵害されていることは、意志によって避けることのできない可傷性、負債の徴である。(p186)

この可傷性・感受性・自己内の他者・不透明性、こういった原初的な受動性において「私」の唯一性が担保されており、それがゆえに、「私」はこの状況に対して責任を負っているのである。

私たちはこの状況を作り出してはいない。だからこそ、私たちはそれに留意しなければならないのである。(p188)

こうして明らかになった倫理的要求は、すべからく「自分自身を説明すること」へと再び回帰するであろう。しかし、先にも見たように、それはすなわち「私」を常に逸するということに他ならない。しかし、むしろそれであるからこそ、倫理的要求、私たちの倫理的行為はその先を目指さねばならない、とバトラーは言う。つまり、この「私」を形成した社会・規範的権力にたいして、闘争することを要求するのだ。

「私」は最初から、私が想起も復元もできない呼びかけを通じて存在するようになるのであり、私が行為するとき、その構造の大部分は私の作ったものでないような世界で行為するのである。だからといって、私が作ったもの、私の行為はまったく存在しないというわけではない。それらは確かに存在する。それが意味しているのはただ、「私」、その苦しみと行い、語りと見かけは、様々な仕方で確立され、反復可能な社会関係のるつぼのなかで生起するということであり、そのうちのいくらかは回復不可能で、現在の私たちの理解可能性に影響を与え、それを条件付け、制限しているということだ。また私たちが行い、語るとき、私たちは自分自身を露わにしているだけでなく、誰が語る存在であるかを決定する理解可能性の図式に影響を及ぼし、それを切断し、見直させ、その規範を強固にし、もしくはそのヘゲモニーと闘っているのである。(p242-243)

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このようなバトラーの考察・呼びかけは確かに感動的で、刺激的である。そこから学ぶものも多い。例えば、オドラデク(これはバートルビーにも通じるか)と非人間性をめぐるアドルノの話しとか、アレントの話もすごく興味深いし示唆的である。しかし、バトラーの「倫理的要請」が、例えば実践化されるならば、クローゼットからゲイが出て行かねばならない、という程度のことしか意味していないのだとしたら、それはどうなのだろうか、とも思わざるをえないことも確かである。結局そこかー、という感じがしないでもない。また、フーコーのパレーシアの話について僕は不勉強でよく知らないので、バトラーの読解のように系譜岳と結びつけて「すごく上手い読解」をして大丈夫なのか、とかいう疑問もある。フーコー読んだらそういう結論に行くの、バトラーさん?ってちょっと聞きたい気もする。
いずれにせよ、フーコー読む!