'10読書日記46冊目 『ハイデガー=存在神秘の哲学』古東哲明

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

284p
総計13653p
ハイデガーの解説書も読まないと、と思って。古東さんのハイデガー解釈がどれくらいメジャーなものか分からないが、存在=神秘、というのは、どうなのだろうか。いや、もちろん『存在と時間』を読んでいて、そういう印象を受けなくもないのだが、あまりにポップすぎやしないか。それともハイデガーは、ポップなものなのか。東洋哲学と結びつけたそうな書き方も、あんまり、ではある。
が、ハイデガーの全体を通した問題意識(の変遷)なども知れたので、よい読書ではあった。特に、存在と時間の結びつきを、映画のフィルム、車輪の比喩を通して説明するくだりは非常に分かりやすい。確かに、重要な用語であるZeitigungを時熟とか訳されてしまうと分からないが、「時が実現する」と言われると理解可能性がより高まる。

ただ、ハイデガーのエッセンスを凝縮した本書を読んで、つねに思っていたこと。それは僕が政治/社会思想プロパーだからなのかもしれないが、存在論のレベルの議論と存在論のレベルの議論を分けることは、社会思想ないし政治哲学にとっても、ハイデガーと同様に、非常に重要だということである。存在論的差異、と呼ばれるこのレベルの違い。例えば、ハイデガーにおいては、死へと先駆することから、自らの実存への可能性も生まれる。自らの疎外状況、存在忘却が、むしろ存在への道を開く。それは分かる。ただ、こういった存在論のレベルの議論を、〈政治〉が語ってはならないのではないか。仮に、貧しさにあえぐ人々がいたとして、その人らに向けて、君達はむしろ自らの存在に開かれているのだ、というふうな議論をしたとするなら、それは貧しさの肯定・現状維持にしかなりえない。あるいは、政治は実存の過程である、ということを、戯画化されたハンナ・アレントとともに述べるとするならば、それは危険なことになりはしないか。危険だというのは、そこにおいて政治が限りなくナチズムに、ヒトラーに近づくのではないか、ということである。

ハイデガー研究者である小野紀明もどこかで言っていたが、政治・社会思想家は、存在論的差異ではなく、むしろ、「存在的差異」すなわち、存在論ではない存在者を扱うというレベルの議論も決して忘れてはならない。ローティがかつてプラグマティックに語ったこと、それを僕はあんまり好きにはなれなかったが、いま、彼の言いたいことが少しだけ分かる気がする。