映画『告白』

映画『告白』を見てきた。

大絶賛の嵐なのだが、僕はそこまで素晴らしいとは思えなかった。ポップな手法で淡々と出来事を追う方針は好感が持てたけれど、結局「告白」がなんなのか、何を意味するのか、ということまでは追いきれていない。これは原作の問題なのかもしれないが。

告白とは、結局自らが抱える真理を告げることにほかならない。しかし、それは告白を迫る機制によって導き出された真理であり、その真偽の公準は徹底的に聞く者にゆだねられている。真理は徹底して語ら"される"のであり、それは語られた途端、自らにとっての真理ではなくなってしまうようなものだ。『告白』では、まさに生徒たちの告白が、次々と現れる別の生徒たちの告白によって覆され、自らが真理だと思っていたものがすぐさま否定されていく。ここまでは良い。しかし、究極的に生徒らに真理を告白せしめているのは、別の超越的な視点である。
その超越的な視点に位置するものは松たか子演じる子供を殺された女教師であり、同時に観客であるわれわれである。映画の中では生徒が行った悪事に対して、常に何らかの教育-更生が与えられる。しかし、松たか子の、そして観客の立場は決して問題に付されることは無いし、更生の対象となることはない。
松たか子の「告白」だけが、超越的にコンテクストから遊離して、どこかへと去っていく。彼女は子供を生徒によって殺されたのだが、その悲劇のリアリティは映画には反映されない。残酷なシーンをポップに切り刻んでいく手法は、どうしてもその「ポップ」さを基礎づける超越性を要請してしまうのだ。ポップさ、軽やかさ、というものを得るためには、現実をseriousなものとして見る視角から隔絶することが不可欠となる。現実がseriousさを喪失し、全ての出来事-事件が戯れであるように扱われるとき、映画は非常にポップでキャッチーなものとなりえる。しかし、つまるところこの映画は、その選択において、すなわち現実をseriousなものとして描くか否かの選択において、ブレるのだ。
映画が、松たか子の涙だけを誰によっても覆されえない「本当」だと、コンテクスト外在的な超越者だけが真理を担保できるのだと描くのであれば、この映画は非常に「道徳的」であり「教育的」であろうと言わざるを得ない。道徳や教育は、常にすでに、超越性-普遍性を仮構して行われてきたのだから。その道徳性は、道徳性自体への疑義の欠如によって基礎づけられているのだ。映画の視点人物である松たか子は、最後の最後まで、復讐において失敗しない。このことはすなわち、視点人物=観客の視点への異議申し立てを含まない、ということしか意味しないのだ。それゆえ、なおさらこの映画における道徳性の基礎付けは確固たるものである。
実際には、全てが既視感に満ち満ちていたとも言える。少年らの行動はあきらかに物語上の陳腐さ以上のものではありえなかった。何もかもが予定調和であった。そして、その予定調和さを招来したのは、松たか子=大人という視点であり、その脱-内在性にほかならない。おそらく『告白』がもっと優れた告白映画たりえるためには、松たか子の告白さえ覆されねばならなかったはずだ。実際、彼女の悲劇的な境遇は、全て状況依存的であり、予測不可能なものであったはずだ。夫のエイズ感染、生徒による女児の殺害。彼女はこれらの出来事から丸ごと疎外されている。しかし、彼女は、実質的に生徒らに対して行われる復習のあり方全てを、完全に掌握し統率してのけるのである。<子供>が真理から常に疎外された存在だとすれば、松たか子の存在は、徹底して<大人>である。そして、彼女と同時に<大人>の視点しか把持しえない観客も、<大人>でしかない。僕は、<大人>になるために、そして自らの<大人>性を確認するために、なにかの映画を見るのではない。真に<子供>の映画が見たかった。

問題となるのは、人が自らが真理だと思うことを、どうして誰かに向けて告白せざるを得ないのか、ということに尽きる。フーコーが言うように、その真理は、真理を真理たらしめる知の布陣によって、権力となる。告白を聞く者に対して、告白者は真理による脅迫を行うのだ。そうでないとしたら、どうして人は沈黙しないのだろう。松たか子はどうして復讐せねばならないのだろう。どうして教育-更生という名の下で、告白-復讐がなされるねばならないのだろう。この映画は、この問いを大掛かりなCGまで駆使した後に、あえて忘却してしまうかに見える。しかし、最後の最後に、ようやく一筋、この映画をやっと成功せしめるセリフが松たか子の口から漏れる。「なーんてね」。教育-更生「なーんてね」。これがなかったとしたら、おそらく映画『告白』は見るべきところなどない酷い映画になっていたに違いない。しかし、すんでのところで、映画はそれを回避する。この映画を手放しで賞賛することは、僕にはためらわれる。しかし、少なくとも、悪い・ひどい映画ではなかったことにも、同意せざるを得ない。