'10読書日記48冊目 『〈生政治〉の哲学』金森修

“生政治”の哲学

“生政治”の哲学

p339
総計14452p
 熱すぎる本である。筆者はほとんど実存を賭けて本書を書き上げたといっても良いのではないか。どうしてか本書を読んでいて、幾度も昂揚した。一気に読めた。このような体験は(特に日本の)学術書を読んでいても稀有である。第三章では、筆者自身の哲学的考察が、具体的な事例と共に述べられる。そこで筆者は、蛮勇の決意を持って、存在と実践のつながりを断ち切り、<統治>が為されるのは、全くの根無し草的な状況、どこにも何にも根拠が見出し得ない状況である、ということを直視しようとする。本書に通底している<生命の政治化>、<生政治学>は非常に重く苦しい。もはや我々は安易な自然主義に根拠を求めることなど出来ない。本書の最終部分が訴えているのは、次のようなことではないか。すなわち、もはや生政治は、他の形容詞を付した政治と領域を隔する分野にあるのではなく、今やわれわれが対峙せねばならないのは政治の生政治化であり、政治とはそもそも生政治であったのだ、ということだ。
 こういう断言は奇異に聞こえるかもしれない。しかし、生政治の概念の発明は、今まで政治学が隠蔽してきた泥濘が、もはや堪えきれずに噴出した必然の結果にほかならないのだ。どういうことか。例えば、啓蒙の思想家によって編み出されたリベラリズムを見ればよい。彼らは身体の自己所有権・自己保存権を神聖不可侵な領域とみなし、それを犯さないかぎりにおいての自由を保証してきた。
 しかし、今や現れているのは、身体の自己所有権が侵犯されるのかそうではないのかが、全く不明瞭な事態――クローン人間・中絶権・臓器移植etc――なのである。だが、こうした事態は、今まで巧みに人間の陰なる部分(zoe)を覆い隠してきた政治学のカバーが限界に達したということを表しているに過ぎない。
 近代政治学がいくら表面的に自由と平等を謳おうとも、その根底には生身の<身体>をめぐる一大<生政治>が流れていたのであり、むしろそれを根拠に成立していた。啓蒙の自由主義は、人間の自然性-身体に最大の根拠を置いてきたのだ。しかし、我々は問わねばならない。果たして<身体>とは自己所有できるものなのか、<身体>の自然性が統治と常に・すでに直結してきたものではなかったのか、と。

 他にも、僕はアレントの<生政治>という筆者の卓見にも驚かされた。『人間の条件』の労働の章を読み返した。ぼくがまだ見落としていたことを、確かに筆者は適切に指摘している。「気付き」が幾度も訪れる本だ。フーコーアレントネグリアガンベン現代思想に精通する人らには馴染みの哲学者たち。フーコーネグリアガンベンの議論は、ある意味でオーソドックスなものであろうし、概括的である。お勉強のために書かれたようなものだ。しかし、アレントに関してだけ、そこは教科書的ではない。「アレントの政治哲学」と呼ばれるときに見落とされがちな、そして古風で時代に合わぬものとして切り捨てられがちな、彼女の「社会」論に新たな光を当てている。
 アレントによれば、近代は社会的なるものの勃興によって特徴付けられる。社会とは、本来私的領域にとどめ置かれていたはずの労働-生命の必然的欲求の充足-生命過程を、中心に据えて動いていく公的な領域である。社会の勃興と同時に、人間の自由と多様性の領域であった公的領域は失墜し、また、親密圏でもあった私的領域も衰退する。そうした社会を稼動させているのは、労働の肥大に尽きる。アレントはlabor/work/actionと活動力activityを三つに分類した。誤解されることも多いが、その中で労働は貶められた価値を持つわけではない。労働は、自らの生産を消費するという肉体的喜びを、苦痛を伴いながらではあるが、与えてくれる。逆に言えば、労働は苦痛を随伴しながら、人間の生zoeを満たすものだ。

労働の「至福と喜び」は、私たちが全ての生物と共有する生きとし生けるものの純粋な幸福を経験する人間的様式である。〔…〕労働の労苦と困難は、自然の繁殖力によって報われる。〔…〕労苦と満足感は、互いに密接に結びついて交互に生起する。労働の祝福はこの点にあるのである。(アレント『人間の条件』:pp163-164)

 社会=労働の肥大現象は、しかしながら、この労働が持つ二つの意味を同時に変質させてしまうのである。一つは、マルクスとそこだけは意見を同じくする労働の物象化/労働の産物からの疎外。もう一つは、苦痛の隠蔽化。
 一つめ。二重に自由な労働者にとって、自らの労働の産物は資本家によって収奪される。自分の労働の産物を自分では所有できないばかりか、自分とは縁遠い存在になり、労働の対象が不変資本に凝縮したときには、かえって自分がそれに支配されるという構図がある。労働の喜びは徹底的に失われる。

近代が発展し、社会が勃興し、全ての人間的活動力の中で最も私的なもの、すなわち労働が、公的なものとなり、それ自身の共通領域の樹立を許されるようになると、世界の内部で私的に保持された場所としての財産そのものが、増大する富の情容赦のない過程に抵抗できるかどうか疑わしくなるだろう。〔…〕この点で肉体が本当に全ての財産の根源となるのは、それが、望んでも人と分有できない唯一のものだからである。(ibid:p170)

富-資本の蓄積において、そして資本の運動の帰結において、労働者の私的財産なるものは、かつてのように確固たるものではなくなる。確固たるものとして、個人に残されたものは、自らの身体にほかならない。しかし、その身体は、労働の喜びから疎外されてしまっている。
 二つめ。アレントはコチラのほうに強調を置くのだが、生産様式(技術)が進歩・発展していき、果てはオートメーションが登場する。普通ならばこのような技術革新は労働の短縮化・簡易化を伴う有益なものと考えられるだろう。しかし、アレントはそうは考えない。むしろ、生zoeそのものが、こういった技術の発展の据えに生まれた最先端の機械群に凝固しているのだと考えるのだ。敢えて大胆に言えば、機械そのものがzoeを代替し、人間はzoeから解き放たれているかのような、すなわち自らの生命的特性から解放されたかのような、錯覚に陥ってしまうのである。

労働の道具の改善によって、生命の二重の労働、すなわち、生命を維持する努力と生産の苦痛は、以前にくらべれば和らげられ、その苦痛は減少した。〔…〕〔しかし〕こういう状態から生まれる危険は明らかである。人間は、自分が必然に従属しているということを知らないとき、自由ではありえないからである。というのは、人間の自由とは、常に、自分を必然から解放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるものだからである。(ibid:pp182-193)

道具と器具は、必要そのものを変えるのではない。それはただ私たちの感覚から必要を隠すのに役立つだけである。(ibid:p186)

オートメーション社会に対するアレントの批判、すなわち社会が孕む危機を理解するためには、彼女の反自然主義を理解せねばなるまい。

生命は、他のすべての動物種にとっては、その存在の本質そのものにほかならないけれども、人間にとっては、その生来的な「空虚さ(futility)への反発」のゆえに重荷となる。この男重荷は、いわゆる「いっそう高潔な欲望」がどれ一つとしてこれと同じ緊急性をもたないので、それだけ重いものとなり、実際、生命の基本的な欲求として必然的に人間に強制されるものとなる。(ibid:pp177-178)

ここで言われているのは、人間が、他の動物とは違って、生命の充足を最高価値として生きているのではないこと、むしろ生命の執着を断ち切るところに価値を見出すものだということ、こういった反自然主義である。人間はやがて死ぬ。人間のzoeは「至るところで耐久性を使い果たし、それを消耗させ、消滅させる一つの課程」(ibid:p151)にほかならない。しかし、人間の消滅の確実さとは違って、世界は耐久性を持ち、個人が死に去ったあとも、生き残る。確かに、個人はやがて死ぬ、自然として。しかし、それだからこそむしろ、生命過程の必然性から何とか逃れ解放され、世界において、自由な活動acitonを行おうとするものなのだ。アレント反自然主義的人間観は、もちろんニーチェ永劫回帰の思想、生が根本的に無意味であるという確信と一直線で繋がっている。人間の生を無意味さから救うものは、耐久的な世界である。しかし、近代とともに現れた「社会的なるもの」は、こうした人間のzoeの自然性を忘却させ、さらには世界そのものまで消費され・耐久力のないものへと変えていく。ここにおいて、社会は危機に陥る。極北的ニヒリズム全体主義へは一歩手前だ。

この生命が、消費者社会あるいは労働者社会において、安楽になればなるほど、生命を突き動かしている必要の緊急性に気づくことが困難になる。しかし、実際は、必要の外部的現れにほかならぬ苦痛や努力がほとんど消滅しているように見えるときでさえ、生命はこの必要によって突き動かされているのである。社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられる。このような社会は、もはや自身の空虚さを認めることができない。つまり「労働が終わったあとにも持続する、なにか永続的な主体の中に、自らを固定したり、実現したりしない」生命の空虚さを認めることができない。危険はこの点にある。(ibid:pp197-198)