'10読書日記52冊目 『フーコー・コレクション4 権力・監禁』

455p
総計15840p
フーコー・コレクションもいよいよ三分の二をすぎた。読み進めてきて素朴に驚かされるのは、いかにフーコーが語る対象を変え、語る仕方を変え、実に多産的に仕事をしてきたのか、ということにほかならない。狂気と理性の問題圏から出発し、文学の(不)可能性へ、言説分析へ、そして権力の問題圏へ。フーコーが名指した《権力》という概念は、それ自体で論争的である。抑圧的ではなく生産的な権力、様々な場で抵抗に見舞われ闘争し続ける場を提供する権力。フーコーの権力は、もちろん知/権力という関係性において把握されねばならない。それまでのフーコーは『言葉と物』や『知の考古学』において、連続的・進歩的な歴史を廃棄し、変化と出来事、断絶を記述することを選んできた。言説において突如生じる断絶を見定めること、これこそが考古学的な試みにほかならない。それが70年代にはいると、やがて考古学から手を引いて、系譜学へ、権力の系譜学へと入っていくことになる。そこでは、言説分析だけには留まらない具体的な分析、監獄、病院、家族etcの分析がある。

本書には多くのインタビューが収録されており、フーコーのスタンスが比較的分かりやすく語られている。
サルトル派の実存主義者らから異議立てられたフーコーの(一見そう見える)歴史の否定ということへ、あるいは構造主義に対する批判に対して、反論を行った「歴史への回帰」。近代の司法-法廷が真理を創出し、それによって権力を実行に移すということを強烈に問題化した「知識人と権力」や「人民裁判について――マオイスト毛沢東主義者)たちとの討論」。近代西欧社会における知の歴史において、試練としての真理から認証としての真理への移行が起こったということを、提起した異色の真理/権力論「狂人の家」。フーコーの権力論に用いられる語彙が地理学のそれと似通っていることの意味を、自身がインタビューに答える中で考察した「地理学に関するミシェル・フーコーへの質問」。生権力の駆け出しとも言える「医学の危機あるいは反医学の危機?」。そして「真理と権力」、「権力と知」。本書に収められた論文やインタビューの多くは、ともすれば人を混乱させるフーコーの権力論についての手引きとなりうる代物である。


ところで、僕が読んでいて興味深いと思ったのは、パノプティコンについて討議した「権力の眼」において、フーコーが示唆するベンサムとルソーの一体性だ。

ベンサムはルソーの相補者だと私はいいたいですね。実際、多くの革命家たちを鼓舞したルソーの夢とはいかなるものでしょうか。そのどの部分をとっても見てとれ、かつ読みとれるような透明な社会の夢です。(p382)

ここで言われるルソーの夢は、すなわち一般意志であろう。全体意志とは区別され、市民citoyen一人一人の意志が、公共的全体における単一の意志と重なるような意志こそが、一般意志であった。それは「人々の心が互いに通い合うこと、視線がもはや障害物に出会わないようになること、各人に対する各人の意見が支配すること」にほかならない。

ベンサムはそれと同じであり、かつ同時にそのまったく逆でもあるのです。彼は見通しの問題を立てますが、それは支配し、監視する視線のまわりに全面的に組織されているような見通しを考えてのことなのです。彼が働かせようとする全面見通しの計画は、厳格かつ細心な権力のために作動するようなものなのです。かくして、ルソーの大きなテーマに――これはいわば〈革命〉の抒情なのですが――ベンサム固定観念であった、「万物注視」の権力行使の技術的な観念がつぎ木されます。両者は接合し、合体したものが機能することになります。ルソーの抒情とベンサム固定観念との合体です。(p383)

二人の思想がであったところに、近代の権力が機能する場が生まれる。パノプティコンによる監視は、個人の身体内部に権力が作用することを許し、個人の身体において権力は内面化される。権力の内面化は、それゆえ、一般意志と個人の特殊意志が常に合致するという状況を目指すものだ。近代の権力-視線の問題と、ルソーの一般意志あるいは「世論」の関係を接合する視座が、フーコーによってヒントとして与えられているような気がする。