'10読書日記53冊目 『プルーラリズム』ウィリアム・コノリー

プルーラリズム

プルーラリズム

289p
総計16129p
今年に入ってまだ53冊しか読んでいないという衝撃の事実に慄きながらも、本書は、今読んでいるフーコーとあいまって(もちろんコノリーはフーコーの影響下にあるのだから当然といえば当然だが)、非常に面白く読めた。
コノリーは、アウグスティヌススピノザウィリアム・ジェイムズベルグソンレオ・シュトラウスニーチェアガンベン、ハート&ネグリら様々な哲学者を引き出しながら、自らの政治哲学を強く打ち出していく。自らを「リベラル系ドゥルーズ主義者」と呼ぶコノリーの議論は、本当にアメリカ政治理論の本を読んでいるのか訝しくなるくらい面白い。アウグスティヌススピノザの神学をめぐる議論や、ジェイムズやベルグソンに触れた「生成」「多元的宇宙」の部分は難しくて、十全に理解したとは言えない。しかし、「政治」理論だけに終始せずに、より根本的な哲学の議論を展開して「政治」を論じるところこそ、僕が政治/哲学に惹かれる所以のところだ。
コノリーが、僕にとって興味深いのは、積極的に「市民的徳civic virtue」と言う言葉を用いている点である。普通、市民的徳は、リベラリズムからは不変的な正義とバッティングする(しかねない)特殊な善であり、私的領域にとどまっているべきものだと糾弾される。つまり、リベラリズムは自らが価値多元主義の保護者であることを自認するがゆえに、特殊な善である市民的徳の概念を自陣から排斥するのである。ところが、コノリーは、多元主義者pluralistを自称するにもかかわらず、リベラリズムとは逆に、市民的徳について積極的に言明し、多元主義の条件として市民的徳を定義しなおすのだ。

ロバート・ダールとジョン・ロールズに代表されることだが、当時の理論は公共的理性と私的信仰という世俗主義的分割を自明視し、公的領域について論じるときも、手続き、合理的コンセンサス、社会契約などを理性の代用としてしばしば用いた。この理論に対して、新しい理論では、複数の次元にまたがる多様性の性格に注目し、公/私の分離で事足れりとする世俗主義理論に挑戦する。(日本語版への序文p11)

アゴーン(闘技)民主主義論者として紹介されることもあるコノリーだが、彼の議論の根幹にある哲学観を言うとすれば、こうである。人間の身体に付きまとう文化・価値の濃密さを、見失わないこと、これだ。私達の身体-存在には、それぞれに特有の信仰(価値)が積み重なっており、たとえ世俗主義者であっても、自らの信念は、他の超越的信仰と何ら変わらず、どちらも別々の体系にあり、それぞれがそれぞれを傷つけるうるものだ。
多元主義は、こうしたそれぞれの(価値)信仰同士が拮抗しえる事態にこそ、呼び出される。コノリーが何度も言うように、多元主義リベラリズムの「寛容」ではない。「寛容」はtorelanceであり、それはそもそも苦痛を耐えるというところから来るものだ。そして今までのところ「寛容」が説かれる文脈と言うのは、権威的・中心的なマジョリティが優越的に少数者に示すほどこしにほかならなかったのである。多元主義は寛容とは異なる。

ある特定の信仰は、他の信仰があることをもちろん要求する。なぜなら、一連の別の信仰が、その信仰を確定する際に必要な対比のために役立つからである。しかし、貴方の信仰の特定化に必要なそうした代替的な信仰が公表されると、貴方の信仰が存在の本質を表現しているという自信が脅かされることにもなる。信仰内の悪の問題がしのび入るのは、信仰自体のこうした二重構造の内部にである。(pp44-45)

コノリーの多元主義が闘わねばならない相手は、「信仰そのものの偏在性と多様性自体の中にある悪」あるいは「信仰内の悪への誘惑」に屈した、一元主義者である。また、たとえ、いかなる人でも(リベラルであれ世俗主義者であれ)私的領域と公的領域を整然と区別することなどはできず、公的領域にはそこに参加する各人の信仰(信念・エートス)が持ち込まれている。そこで、ある人が抱く信念は、別の人が抱く信念を傷つけ動揺させるものになりえるし、それに加えて、いかなる信念・アイデンティティの源泉も基礎付け不可能なものだ。
こうした、コノリーの多元主義の源泉にあるのが、ウィリアム・ジェイムズの「多元的宇宙」とベルグソンの時間概念である。両者はともに「生成becoming」に着目した思想家だとしてコノリーに取り上げられている。例えばジェイムズは、コノリーによれば、「一つにはおそらく、このように把握された世界では、新たなものが常に誕生する可能性に開かれている」と考えていた(p130)。「真に存在するのはつくられた事物ではなく、つくられつつある事物である。」(p127)また、ベルグソンの時間概念によれば、世界は「未来が現在的瞬間において全く決定されていない」のであり、「時系列-時間の異なる段階で、生成の様態それぞれが別のそれに結合しているような、生成の世界」である(p176)。
このほかにニーチェやカントなども取り上げながらコノリーが練り上げるのは、「生成の政治」という概念である。

生成の政治という言葉で、私はパラドクスの政治を意味する。そこでは新しくて不測のものごとが存在へと高まって行〔く。〕〔…〕生成の政治とは、表面化していない力がその中に蓄積される中で存続する結晶化を指す。(p201)

もちろん、こうした生成の政治が肯定的なもの、安全なものばかり生み出すわけはない。新しい価値観を持った文化や、新たな権利を訴える運動だけでなく、新興宗教や、排他主義なども生成しうる。では、そのような生成の政治において、どのような政治的徳がふさわしいのだろうか。第一には、アゴーン的な敬意である。

アゴーン的な敬意のエートスは、生における信仰の偏在性についての相互認識や、相争ってきた諸党派が今までに、ある信仰が他の現にある信仰に勝る真理であると立証できなかったことの相互認識によって強まる。そうしたエートスは、それらの領域では論争的な要素があると相互に認め合うことで強まる。二つの意味で、関係はアゴーン的となる。すなわち、他者によって疑問を呈された自らの信仰の要素を保持するという苦悩agonyを受け入れること、そして他者へ伝達する敬意に他者のアゴーン的な論争生を織り込むこと、である。(p205)

第二には、批判的な応答性である。批判的な応答性は、生成しつつある価値集団を目の当たりにしたときに、従来では「慎重な傾聴と推定に基づく寛大さ」と呼ばれていた形態をとって現れるものだ。

ある場が形成されるとき、対立と類似をめぐる新しい用語が得られ、全ての登録簿registerはある程度変容する。生成の政治がいくつかの領域で急増すると時、関心や義務や原理についての古いコードを新奇な出来事に合わせて、霊感と精神の柔軟さによって調整する必要がある。〔…〕今や、まさに基準そのもののいくつかが問題の一部分を形成しているのである。

このような市民的徳の実践を、コノリーは、市民的な二方向の取り組みdouble-entry orientationと呼ぶ。すなわち、生成しつつある新たな価値体系を持つ他者に向き合ったときに、一方で、自らの価値体系を、それに屈さずに把持していき、他方、新しい価値体系によって自らの価値を修正するという、二方向の取り組みである。こうした市民的徳がなければ、多元主義は、容易に一元主義の手に落ちてしまうであろうし、政治の複数性は保持されないだろう、とコノリーは言うのである。

僕には、こうしたコノリーの主張が、少々理想主義的に聞こえるとは言え、好感が持てる。生成と多元性という二つのモーメントを軸にしつつ、さらに市民的徳という実践原理を提唱するやり方は、なかなか深い気がする。さらに、コノリーは市民的徳と権力の関係についても触れる。アガンベンが『ホモ・サケル』で展開したような構成権力の恣意性の問題を批判しつつ、主権の実践は多元的な要素からなっており、「抗いがたい権力と公的権威との間の往復運動や、公式な主権の場と制度的に埋め込まれたエートスとの間の往復運動」も存在すると論じるのだ。それゆえに、主権のエートスに多元種的なエートスを吹き込んでいかねばならない。
また、コノリーとサンデルは、共にリベラル批判をする点で共通しているが、サンデルが現代の市民的徳を次のように述べるのに比べて、はるかにコノリーの方が、真に多元性を志向しているといえよう。

私達の時代に特有な市民的徳とは、時に重なり合い、時に抗争しあう〔諸コミュニティから〕求められる義務を調停する能力であり、また、複数の〔コミュニティへの〕忠誠心の間で生じる緊張と共に生きていく能力である。("Democracy's Discontent"p350)

ここには、多元主義コミュニタリアンの違いが、そして後者の欺瞞がある意味で透けて見えるだろう。コミュニタリアンは、各コミュニティの個人に対する優越を説くが、コミュニティ同士の葛藤がないかのような価値中立平面を(リベラリズムと同様に)保持してしまってはいないだろうか。コノリーは、そのような超越論的に設定された普遍平面のようなものを徹底して退け、アゴーンを招来すべきものとして考えているのだ。そして、それがゆえに市民的徳の要請も効いてくるのである。

とはいえ、容易にこういった多元主義アイデンティティ政治学には、反論も思いつく。公的領域における多数な価値集団が多元的に現れるとして、それでは福祉政策などはどうすればいいのか。配分の問題は、承認の問題に劣っているのか、ということである。多元主義が現実の政治に関わるや、それは利益政治(リアル・ポリティクス)に回収されてしまうのではないか。差異の政治を考える際に、こうした視線を見失わないことが、必要だろう。アレントのように経済問題を政治から取り除くことが適切だとは、もはや思えない。では、どうすればいいのだろうか。コノリーからこの問題を考えるに当たっては、とりあえずもう少し彼の著作を読んでみないといけない。