'10読書日記57冊目 『歴史と階級意識』ルカーチ

歴史と階級意識

歴史と階級意識

抄訳であるらしい1923年のルカーチ初期の代表作。なんという物象化!の嵐。
p357
総計17567p

マルクスの後期経済学批判から物象化を抽出し、洗練されたかたちで理論化する。が、洗練されたかたちとはいえ、物象化にはやはり根本的な困難が付きまとう。それは、筆者はどうして物象化されてはいないのか、あるいはもっと居直って物象化されて何が悪いのか、という不躾な問いである。端的に言えば、物象化的観点からの批判は、何らかのヒューマニズムを前提としているのであり、そのヒューマニズム像の問い直しの必要性を呼ぶ。
 とはいえ、物象化論の「魅力」というものも、あるにはあるのだろう。本書の「物象化とプロレタリアートの意識」論文の第一章「物象化の現象」は、物象化を経済学-資本主義分析から説き起こし、さらには政治・イデオロギーの物象化へと論を進めていく。その議論の歯切れのよさは――きっと見田宗介真木悠介)の『現代社会の存立構造』にも影響を及ぼしたであろう――心地よいほどなのだ。ともあれやはり、物象化批判には前述の問いを掲げておきたい、おそらくこの議論のテンポの良さに執心したであろうかつての左派に向けて。
だが、ルカーチの本当の困難は次のことに立ち現れる。仮に、物象化批判を影から支えるヒューマニズムに共感したとして、社会全体が物象化されてしまった状況において、どのようにして物象化された意識がそこから目覚め、さらなる物象化をめざす資本の駆動に対して立ち向かえるのだろうか? ルカーチの回答は、その物象化を打ち破るものこそ、階級意識に目覚めたプロレタリアートだというわけである。

資本主義的生産においては、労働者が自己の労働力を全人格にたいして客観化し、これを自己に属する商品として販売せざるをえないために、生産過程の単なる客体への労働者の転化は、たしかに客観的には完成される。だがまさにこのとき、商品として自己を客体化する人間の中で客体性と主体性との分裂が生ずるから、この転化の状態は同時に意識されうるものとなるのである。〔…〕とりわけ労働者は、自己を商品として意識するときにはじめて、自己の社会的存在を意識できる。〔…〕商品構造の物神的形態がくずれはじめる。(pp182-183)

労働者の定在Daseinが純粋に抽象的に否定されていることは、客観的にきわめて典型的な物象化の現象形態であり資本主義的社会化の基本的原型であるとともに、まさにそのために、このことが主体的には、物象化構造を意識させ、こうして実践的にこれを打破することを可能ならしめる点なのである。(p190)

こうした労働者は、自らを個人としてではなく「階級」として認識しなくてはならない。ルカーチによれば、社会民主主義ブルジョワ化した偽の解決に過ぎない。

社会民主党はすでにやっと得た媒介を人為的に閉めだし、プロレタリアートをその直接的定在――そこでは資本主義社会の直接的境地しかないとともに、プロレタリアートの自己止揚も打破もその原動力を失うのである――に引きもどすのである。(p239)

簡単に言えば、社会民主主義は、プロレタリアートの階級化を、すなわち階級意識の生成を妨げるのだ。だが、一体、この物象化された資本主義社会において、そして物象化されているが故に断片化されたプロレタリアートたちを、誰がどうやってまとめ上げるというのだろうか。ルカーチを読むことで引き起こされる疑問は、重要である。すなわち、たとえ革命が必要だとしても、どうやって革命を組織するのか、革命党の政治形態はどうなるのか、という疑問が引き出されるのだ。ルカーチは具体的なことを書いてはいないが、おそらくプロレタリアートを革命としてまとめ上げるのは、物象化から自由に思考できる(らしい)知識人・エリートなのだろう。

プロレタリアートの意識について、今や発展は自動的に機能しないのであって、旧い直観的・機械的唯物論では捉えることのできなかったことだが、変格と解放がまさに自己独自の行為であり、「教育者はみずから教育されねばならない」ことが、いよいよプロレタリアートに意味を持ってくるのである。(pp262-263)

このように見てきたとき、見るも無残な結果に終わった社会主義諸国の失敗を、ようやく私たちが学ぶべきところにいる。問題はやはり積み残されたままだ。エリートの支配は、結局一党独裁を招くのだろう。しかし、エリートは、旧い政治思想の言葉を使えば、必ずや腐敗するのであるし、エリートによって先導される解放も、フーコー以後においては疑わしい。
もちろん、ルカーチから批判的に学ぶべきところは、これだけではない。大分長くなってきたので簡単に書くが、ルカーチがカントを見る眼差しは問題的である。ルカーチによれば、カントが物自体を設定し、所与を認識不可能としたことで、哲学を実践から切り離し、静観的態度へと集中させる契機となった。物自体を認識から除外することで、理論的・合法則的領域を招来したカントを、ルカーチは、ブルジョア経済学者――恐慌の可能性を無視し、予定調和的社会を夢想した――になぞらえるのだ。しかし、カントが物自体を、消極的な理性的存在として設定したことを、そのような独我論へと帰着させて良いのだろうか。