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久しぶりにO先生の講義を聞く。渋谷。やっぱりお話を聞くのは面白い。終わってからは懇親会。O研の人たちもたくさんいた。出版社主催の懇親会で、ただで飲み食い。来週も続きがあるって。夜はシュトゥルム・ウント・ドラング。やっちゃってるなー俺。これいわゆる青春って奴なんですかね。
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朝また新幹線で京都。腐ってる。けど、あんまりもうどうしていいんかわからん。本当は分かっているけれど。悟性的にはフリーセックスを擁護したいし、恋人としかセックスしたらあかんとか言いたくない。が、実際そういう事態に直面すると、悟性と感情のギャップに、というか後者の前者への優越に驚かされるし、それに落胆する。今回の僕は、まさにそうだった。身体だけの関係で愛は無いということ、このことは十分に信のあることだった。けど。
愛を自分の実存でしか表現できないものだと考え始めたのは、大学二年の冬くらいだったように思う。愛を記述の束に還元することはできない。愛は自らの固有性のもとに、他者の固有性へと向かう志向作用だ(これらのことはすべて大澤真幸から学んだ。それは僕にとても影響を与えた)。だから、僕はこの恋愛を僕の実存の「物語」に仕立て上げてきた。僕は自分の人生の戯作者となった。私小説家。僕(ら)の恋愛は、端的に言えば、成功し得ないものだった。それは最初から分かっていた二年間だった。もう十分一緒にいたような気もする。僕は、新しいところへ、違う自分へ、今までとは別様の何かへ、向かうべき時間と場所にいる。ここは京都ではない、東京なのだ。新しい場所だ。新しい時間がある。それらのことは、悟性では理解している。それだけになお、分かっていつつ没入する自分が惨めで、その惨めさ込みで「物語」にしてしまっている。
最近流行の、マイケル・サンデルコミュニタリアンだ。コミュニタリアンの特徴は、自己をnarrativeとして、つまり、「物語」的自己として考える。その物語は、自己が属している共同体・文化・歴史によって支えられる。サンデルらは、リベラリズムの自己を「負荷なき自己」と表現し批判する。だが、コミュニタリアンは問題を捉え損なっている。現代の真に不幸なことは、共同体・文化・歴史がもはや「物語」の体裁を為すことができないという点にこそある。その不可能は、リベラリズムが「物語」の価値を切り捨てたところに由来するのではなく、(大澤真幸によれば)近代社会の根本構造が《資本》という形式をとるところにある。《資本》の欲動。コミュニタリアンは、共同体における「公共善」や諸個人の「善き生」を求める活動原理を、アリストテレスの目的論的な「最高善」に依拠しながら称揚する。しかし、近代社会の構造をなす《資本》の運動は、この目的論的善を端的に否定するところで動いている。単純に言えば、G-W-G'という《資本》の動きにおいては、常に今現在の善(Wの持つ使用価値を享受すること)が、将来のより大きな善(G