浮気・愛・信用

 一般的に、恋人ではない人とセックスに及ぶことは、浮気だと考えられている。だが、それはどうしてなのだろうか。
 浮気者は言うだろう、君はセックスを神聖視しすぎているか、それとも、僕をバイブレーターかなにかだと考えているのではないかい? 
 この開き直った不遜な反論は、残念ながら一定の威力を持つだろう。つまり、こういうわけである。
 セックスをしたからどうしたというのか。僕は、性欲を満たすためだけに他人と寝たのだ。そこに愛は全く介在しなかった。愛とセックスは別の次元に位置している。僕は君を愛している。おや、こう言っても納得がいかないところを見ると、君がそこまで僕の性行為に関して、君とのそれだけに限定したいということは、もしかして、君は僕のことを単に性玩具としかみなしていないのではないかね。僕は君を愛してはいるが、僕の身体は君のものではない。むしろ、君が僕との愛において、性行為をそれほど重要視するということは、僕を単なる君の性欲処理の道具に見なしているということではないか。君こそ、僕を愛していないんじゃないのかい?
 この浮気者の狡知に満ちた反論は、本当に誰かを愛している者にとって、愛の困難さを伝えるものだ。純真なる恋愛観の持ち主であれば、あまりの狡猾さに怖気さえ催すかもしれない。
 だが、よく考えてみれば、この浮気者の反論には陥穽が控えていることが分かる。それが明らかになるのは、浮気者の最初の主張、「僕は、性欲を満たすためだけに他人と寝たのだ。そこには愛は全く介在しなかった」においてである。
 この主張に対して、私たちは「そこに愛が介在しなかったということを、あなたはどのように示すというのか?」とだけ問えばよろしい。実際に、性欲を処理するためだけに他者と寝たのだとしても、そこに本当に愛が介在していなかったのかどうか、恋人は知ることが出来ないのだ。浮気者は、自身の浮気性を否定し、「潔白」を証明する術を持たない。そこには歴然とした事実だけが浮かび上がる。恋人ではない人と寝たという事実、ただそれだけが。
 もちろん、私たちは、ここで次のような古風な結論に退行してはいけない。それは、まず第一に、愛とセックスは決して切り離せないものであるということである。愛がなければセックスをしてはいけないとか、セックスをするということは愛するということと同義だとか、そのようなことは上記からは導き出せない。上記から分かることは、あなたが愛してはいない(と主張する)他者と性的な関係を持ったとすれば、その人のことを「愛していなかった」という証明は(というよりその言明を恋人に信じさせることは)不可能に近いという点だけである。ここでわかることは、逆に言えば、「愛していなかった」ということを恋人に信じさせることができさえすれば、それは暫定的な解決になるということだ。私たちは、ここで、信用という愛にとって重要な概念に出会う。が、とりあえずは議論を進めたい。
 私たちが間違っても退行できない古風な結論の第二は、あなたたち恋人が誰とも浮気をせずお互いがコンサマトリーに性的関係を持っているのなら、それはまさに真の愛だ、というものである。上記からは、むしろ真逆のことが導来せられる。つまり、いくらお互いがお互いのみとだけセックスをし、「愛し合っている」と伝えていたとしても、決してそこから互いの愛は証明できない、ということだ。「僕は君だけを愛している」という言明と、まさに、その相手だけとセックスを取り結ぶという事実があったとしても、「僕は君だけを愛している」という言明の真偽の証明は、発話者にとっては不可能である。たとえどれほど言葉を尽くして「君への」愛について語ったとしても、「君」がそれを信じなければ、証明は失敗に終わる。
 以上のことから、私たちが本当にたどり着くべき結論は、「愛」が信用に密接に関わっているということ、そして「愛」の言明は証明しようがないということ、これである。たとえ、浮気者が恋人以外の他者とセックスしたとしても、恋人に対して自らの愛を信じさせることができれば、二人の「愛」は保たれるであろう。だが、そこで暫定的に取り結ばれる「愛」は、結局のところ、信用の言い換えでしかない。いくら浮気をせずに二人だけで「愛し合」っていたとしても、その愛を証明せよ、と言われれば、その証明は不可能である。「僕」から「君」への愛が証明されるときには、その証明の審判人は「君」であり、その判定基準は「君」の「僕」に対する信用だけである。
 それゆえ、言い換えれば、愛が愛として存在できるのは、不信が顕在化しない間だけである。一方、愛が揺るがされるのは、信用が必要になる局面、愛に対する不信が生まれるときである。愛がみずからの確固たる地盤を誇っていられるのは、ただ不信の不在という、消極的な形においてでしかない。
 私たちは、かくも脆くはかない「愛」というものに、何と多くを託していることか。恋人以外の他者と性交を取り結んだということは、「愛」の失効を意味しはしない。というのも、そのような「愛」は、当初から失効済みなのだ。「愛」は、不信に破壊され、不信が存在しない時にのみその仮象をきらめかせる。
 「愛」などというものは、全部、捨ててしまえばいいのだ。
 そして、再び、違う愛を探せばよいのだ。次こそ、不信によって揺るがない、耐震的な愛を――だがそれもまた耐震偽装されたものかもしれない・・・