'10読書日記64冊目 『権力の系譜学』杉田敦

権力の系譜学―フーコー以後の政治理論に向けて

権力の系譜学―フーコー以後の政治理論に向けて

207p
総計19766p
サブタイトルには「フーコー以後の政治理論に向けて」とある。近代の規律訓練型権力がもたらした規格化・同質化を、主に「労働」概念を中心に分析する第一章から始まり、フーコー英米政治理論との関係性、フーコーハーバーマスを論じて言った後、ダールのデモクラシー論を介在して、最後に現代の政治理論の三幅対(リベラリズムコミュニタリアニズム多文化主義)とポストモダニズムの政治理論について見通しを与えている。1998年の本であり、多少古びているとの感は拭いきれないが、標準的に整理されていて読みやすい。
特に、最終章の「アイデンティティと政治」については、リベラル/コミュニタリアン論争や多文化主義ポストモダニズムニーチェ、コノリー、テイラー)について文化的アイデンティティを中心に議論を整理してあり、これらの問題を(せっかくサンデルが来たのであるし)考え直すのには最適であろう。
微妙なのは、フーコーの取り扱い方である。98年の本であるが故に、フーコーのコレージュでの講義録は出ておらず、統治性の概念や「自己への配慮」系の議論が十分に踏まえられているとは言えない。ともあれ、フーコーへの政治理論(ハーバーマス、テイラーなど)からの批判は、整理されてあって分かりやすいと思う。
(1)フーコーは、その近代権力分析において権力からの解放はありえないとした。近代においては、病院、監獄、工場、学校など様々な制度によって規律-訓育型の権力が作動している。従来の政治学マルクス主義とは違って、権力の担い手や場所は単一ではない。様々な網の目の関係性の総体として権力がある。権力は禁止・排除というよりは、生産・主体化(-従属化)として働いている。しかし、フーコーのそういった近代批判はあまりに一面的ではないのか。近代権力は規律的であったかもしれないが、そのおかげで諸個人は自立的になりえたのだし、フーコーが近代とそれ以前の社会を比較し近代の開放的な側面(公民権運動など)を無視するのも一面的だ。社会が監獄化したとはいえ、それは監獄に「入る」こととは違う。フーコーには「よりまし」という視点がない。
(2)こうして権力を分析-批判するフーコーはどのような立場に立っているのか。彼は自身を系譜学者だというが、近代権力のあり方を暴き出し分析するためには、ある種の規範意識を持たざるを得ないだろう。近代人間主義への会議と憎悪という彼の立場は、何に準拠点をもち、どのように正当化されるのか。
(3)権力と知の連関についてフーコーは分析-批判をしたが、そうしたフーコーの言説の地位はいかなるものなのか。全ての言説がある真理体制に属し、知はそこから産出されるとフーコーは言う。とすれば、そのようなフーコーの言説の真理性はどこに担保されるのか。彼は社会を覆い尽くす真理体制の外側に立っているのか。自身の権力/知の分析もある真理体制と結びつき権力を構成するのか。「われわれは権力/知の関係の外側に出られない」という言明も知たらざるを得ないかぎり、そうではないのか。
(4)フーコーは権力の中心として国家を否定し、社会全体に多様な権力-抵抗の拠点が存在すると言う。しかし、そういったミクロな無数の抵抗点の可能性も、国家体制に依存しているのではないか。リベラルな国家ではそれが可能でも、全体主義国家ではそれは不可能ではないのか。また、フーコーは権力からの全面的解放は不可能であり、権力-抵抗関係の外側に出られない限り、永遠にadhocに抵抗し続けるしかないと言うが、一体その抵抗の動機はどこから湧いてくるというのか。抵抗の自然発生性をあまりに楽観的に見てはいないか。
ほぼテイラーのフーコー批判に準拠しながらの整理ではあるが、このフーコー批判の4点はいずれも重要であろうと思われる。特に、フーコーの権力論と彼の哲学的立場について関係する(3)は、厄介な問題であろう(筆者は、こういった整理を紹介するだけに留まっているが)。