女性自身と物自体のすべて

カント読書会で、バウムガルトナー『カント入門講義』を読み終えたときのこと。物自体と実体、統覚の関係が問題になっていた。結局、バウムガルトナーの本だけでは解決できない問題だということで議論は尻すぼみしたのだったが、参加者がぽつりと、冗談めかしてこう言った。「女性自身っていうのもあるからね・・・」
場は穏やかな笑いに包まれ、カント哲学の”しんどさ”から解放されたかのようであった。僕としても、男性自身とか男性自体とか言ってしまえば即座に下ネタになる、などと馬鹿な発言をしもした。ところが、カント読書会がお開きになったあと帰る道すがら、はっと気付かされることがあった。電車のイスに座って寝不足の頭でぼんやりと、先の軽口を「男性自身は認識不可能だがわれわれはそれを超越論的に弄ばずにはいられない」という風にツイートした時、それに気がついた。それはジェンダーの議論、特に、性別は社会的に構築されたものであるというような議論に際して、僕が感じていた違和感を解消してくれるかもしれないものであった。
僕がジェンダー系の議論に際して感じている違和感*1というのは、簡単に言えば、性別が社会的に構築されているのだとすれば、その性の別(差異)はどこから備給されるというのだろうか、ということである。もちろん、性はグラデーション的であるという議論も知っているし、性を身体的性(sex)・社会的性(gender)・性的志向性自認の四区分から考えるべきであることも理解する。だが、こういった議論は性の単純な二分法やヘテロ中心主義を回避するのに役立つとはいえ、上記の問いには答えられない。いったい、そもそもグラデーションの二極に位置するような男-女という区分はどこから来るのか。社会的・文化的に構築された性(gender)の差異は、生物学的な事実としての性別からもたらされるのだと反論する人があれば、その人はせっかくジェンダー論が蓄積してきた自然と文化(社会)の対立の見事な脱構築を放棄してしまうことになる。仮に「全てのsexはgenderである」という極端なテーゼを真に受けないとして、ではsex(生物学的な性)が真に重要になる局面が存在するということを認めるのか、それではジェンダー論の批判の威力が失われてしまわないか。
しかし、先の軽口――男性/女性自身――は、僕のこういった違和感・疑問を解消してくれるように思われる。この言葉遊びが示唆してくれるのは、男性/女性”自身”が、とりもなおさずsexにほかならないということ、これである。このことを、単にsex/genderの区別、そして後者の前者に対する優位、という観点から捉えてはならない。もちろん、男性/女性自身がsexだというのは、genderというもう一つのパースペクティヴから見定められた場合にのみ言えることではある。しかし、単にこのようなありふれたジェンダー論は、上述した隘路に陥ってしまう。その原因は、つまるところ、性的差異の構築の説明に、まさに性的差異に依存してしまっているという点に存している。ジェンダー論の批判の潜勢力を失わず、しかも同時にこの隘路から抜け出すには、まさに言葉遊びとしての「男性/女性自身」に着目しなければならない。
そもそも、この言葉遊びは、男性/女性”自身”というsichに相応する再帰代名詞を用いた表現から、「物自体」ding an sichというカント哲学の枢要概念から想起されたものだった。つまり、この言葉遊びが示唆しているのは、われわれはsexを物自体として捉えるべきではないか、ということなのだ。どういうことか。性的差異は、まさに社会的・文化的に構築されたものである。しかし、見てきたように、差異の構築の備給をなすものを説明するときに、われわれは生物学的な差異に依拠することはできない。このことは、言い換えれば、性的差異(sex)は社会的構築物たるgenderに完全に回収してしまうことはできない、ということを示している。すなわち、性的差異としてのsexは、どのようにしても、社会的・文化的な構築の外部に、残余として存在し続けてしまうのだ。確かに、性的差異は、社会的・文化的な現象として私たちの目の前に現れている。性差は、社会や文化によって能動的に規定されることではじめて有意味な差異たりうるものとなる。しかし、こうした能動的な規定は、それ自体、自足的なものではない。それは、必ず、社会的・文化的な能動性には捉えきれない残余=外部に依存せざるをえない。このような意味で、sexはまさに物自体だと言える。それゆえ、整理すれば、sex/genderの区別は、物自体/現象の区別に対応せられる。
実際、カントは、感性と悟性を超越論的に区分する中で、次のように考えた。認識は、受容性を持つ感性が触発され、それが悟性(カテゴリー)と結合し対象を能動的・自発的に規定することで可能になる。ここにおいて、感官の受容性を触発するものとして超越論的に措定せざるをえないくなるものこそ、物自体である。ある物は確かに、われわれの前に対象として現れ、認識される。だが、言い換えれば、このことが意味するのは、われわれが物に接近するときには必ず「認識」という枠組みを通してしか、つまり、感性の受容性とカテゴリーの自発性の結合によってしか、接近することはできないということだ。認識、すなわち対象の規定の先験的な前提となるのは、感性の受容性を触発するような何か、物自体である。しかし、繰り返せば、物自体は、感性の機能について超越論的に反省することによって、どうしても措定せざるを得なくなったなにものかである。その意味で、物自体は消極的な意味しか持たない。同じように、sexも社会的・文化的に構築されるgenderに対して、ア・プリオリに措定される(それを外部と呼ぼうが残余と呼ぼうが)超越論的な何かではないか。
例えば、柄谷行人は『トランスクリティーク』において、カント(そしてマルクス)の「トランスクリティカル」な視座の移動の議論の注において、「カントにいささかも言及しないでなされた「カント的転回」(…)の近年におけるめざましい例」としてジュディス・バトラー”Bodies That Matter”(1993)をあげている。『ジェンダー・トラブル』(1990)において、バトラーは周知のように、gender/sexを区別し、前者を後者よりも重視した。このようなバトラーの作業は、性別が自然的・生物学的であり所与であると考える人々を批判するために必要なプロセスであった。それはいわば(経験的-本質主義的に対置される)観念論的な議論である*2

もし、genderが「性」の社会的構築物であるとすれば、そして、もし、構築によってしかこの「性」に近づく方法がないとしたら、そのときには、sexはgenderに吸収されてしまうだけでなく、「性」はなにかフィクションのようなもの、あるいはファンタジーのようなものになってしまうだろう。そしてそれは、直接的に接近することができないような前言語的な場において遡及的に設定されたものとなるであろう。(Butler “BTM”p6)

だが、全ては社会的(言語的)に構築された 、という議論は、およそ聞き飽きた本質主義的な反論にあうだろう、この、まさにこの現にある身体(sex/body)はいったい何なのか、と。このような批判を乗り越えるために、バトラーは構築主義的―観念論的な立場から、転回せざるをえなくなる。それは、sex(body)を、genderが吸収できないような外部(outside)として再設定することによってである。この転回は、「唯物論」的な転回にほかならない。

私が、こういった構築という概念のかわりに提起したいのは、物質(matter)の概念への回帰である。それは(…)時がたてば固定化してしまい、私たちが問題にする境界や定着、表層を生み出す具現化-物質化(materialization)のプロセスとしてである。(ibid.,9)

だが、この「唯物論」は、もちろん経験主義的ないしは本質主義への回帰ではない。つまり、バトラーはsex(body)を「外部」としつつも、それを生物的な身体性において捉えるという議論には退行しない。生物的な身体でさえ、<身体>による構成にほかならないのだ。

言説によって構築されたものの「外部」は存在するが、しかしこれは絶対的な「外部」、つまり言説の境界を乗り越えていくような存在論的な彼岸のことではないのだ。構築された「外部」として、それは(可能であらば)そういった言説について、その非常にか細い境界線上で、境界線としてのみ、考えられうるものである。(ibid.,p8)

言説が構築的(formative)であると主張することは、言説によって言説が与えるところのものが始まり、起こり、あるいは徹底的に組み立てられる、と主張することではない。むしろ、それは、純粋な身体(pure body)への言及がなされるときには必ず、同時にそういった身体の更なる構築へと結びつく、と主張することだ。(ibid.,p10)

バトラーによって、外部として導入されたsex(body)は、カントに比して言えば観念論(構築主義)と、経験論(本質主義)のいずれをも批判することを可能にするものである。カントはその「コペルニクス的転回」において、主観が対象を構成する以前に、先験的に感性を触発し表象を与えるような物自体を、認識における重要概念として設定した。物自体が認識できないにもかかわらず対象にアプローチしようとすれば措定せざるをえないものだったのと同様、sex(body)はgenderの構築性を議論するためには措定せざるを得ないものだ。ここで、sex(body)は生物的な身体と同義的に扱われているのではない。バトラーは、社会的には所与として現れるように見える生物的な身体でさえ、身体による構成の所産であることを見いだす。つまり、問題になっているのは、カントが感覚ではなく、感性の形式(受容性)に着目したのと同様、生物的な身体ではなく身体の形式性にほかならない。それを、バトラーは「物質性」(materiality)と呼ぶ。こういった議論は、構築主義本質主義のどちらをも批判する立場にたつものであろう。構築主義に対しては、sex(body)が無ければ性的差異を説明できない、ということが批判として提出されるだろう。一方、本質主義に対しては、sex(body)は、認識される時には常にすでに社会的な所与として見出されざるをえず、身体に関する言及によって構成されたものとして現れているにすぎない、という批判が提出される。整理すれば、バトラーの言うsex(body)は、社会的に見れば所与として現れざるをえないもの(gender)の基体、すなわち超越論的に措定された何か(外部)なのである。あるいは、こう言っても良い。sex(body)が「物質性」としてあるいは「外部」として前提されているからこそ、言語-言表は可能なのであり、ひいては言説による身体の構成も可能になる、と。
このように考えたとき、男性/女性自身という言葉遊び-軽口は、実はかなり本質的な議論の入り口をなしていたのではなかっただろうか。という風に考えたけれど、最後のほうの議論はバトラーのテクストにちゃんと当たっていないので、僕の誇大妄想に過ぎないような気もする・・・。

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex

*1:http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20100405/1270485703参照。

*2:僕はバトラーの”BTM”も、また恥ずかしながら『トラブル』も未読のため、ここでは柄谷の読解の経由によるバトラー理解に留まらざるをえない。