'10読書日記68冊目 『ジェンダー・トラブル』ジュディス・バトラー

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

p296
総計20964p
やっと読んだ、ジェンダー・トラブル。もはやフェミニズム政治哲学の古典となった本だと言えるだろう。本書は、フェミニズムの理論、特に解放理論と言われるものに対して強力な批判を加えたものだ。禁止-排除だけではなく、むしろ生産的でさえある法によってジェンダーは構築される。いや、それだけではなく、自然的-身体的な性である「セックス」さえ言説の網の目に包囲されている。法の「あとに」構築された主体、これこそがジェンダーに他ならない。こうしたジェンダー理論に対して、打ち立てられてきた理論は解放理論であった。それは、すなわち、法の構築-産出機能の「まえに」あるはずの抑圧されていない多様な性のあり方、本当の主体を解放しようとするものである。
こうした解放理論に対して、バトラーはフーコーに依拠しながら批判を加える。法の「まえに」ある主体というユートピア的な想定さえ、法や社会の構築物である可能性はないのか、その想定はむしろ政治行動の連帯をふさいでしまうものではないのか。あるいは、被抑圧者が別の抑圧を作り出すものではないか。解放理論が前提とする自らのセクマイ的アイデンティティは「排除される者がその排除自体によって前提とされ、されには必要とされるかのように」構築されてしまっているのではないのか。

法は、目的論の道具というそれ自身の位置を保持するために、抑圧される欲望という言語による虚構を生み出し、それゆえに、法はきわめて言説的なものなのである。(p125)

「法のまえの」セクシュアリティを、一次的な両性愛や、抑制されてない理想的な多形性欲と位置づけ、そう語ることは、逆説的に、法がセクシュアリティに先行していることを暗示するものである。(…)法のまえのセクシュアリティという幻想それ自体が、その法によって作りだされたものなのである。(p140)

セックスの内的安定性やその二元的な枠組みを打ち立てるのにもっとも効果的な方法が、じつは、セックスの二元体を言説以前の領域に追いやるということである。セックスを前-言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。(p29)

バトラーはアイデンティティの固定性、主体の前提を徹底的に批判する。その手法は、フーコーの系譜学を受け継ぐものであり、フーコーが一瞬垣間見せるロマン主義的な「自然な異種混淆性」も槍玉に上がる。ジェンダー、あるいはセックス、そして「主体」は、パフォーマティヴな言説によって構築されたものであり、そこからの解放なるものはありえず、その解放さえ別の権力関係に巻き込まれ別の差異を否定するかもしれない。ジェンダー化されていない身体などはありえないのだ。できることは、規範的な言説を、そのパロディ(バトラーはクィアドラァグなどの異装を例に挙げる)などを用いて撹乱(subversion)していくことしかない。この意味において、バトラーはポストモダン的な、あるいはフーコーの理論としての「外部は存在しない」にきわめて忠実である。
ここで、注意しておきたいのは、主体の構築性というある意味で構造主義的なモードをバトラーがどう考えているかである。しばしば構造主義、とくにフーコーなどに向けられた実存主義マルクス主義からの批判は、構造主義決定論であり、主体の自由を認めないものではないか、抵抗の余地はないのではないか、というものであった。だが、バトラーは、主体の構築性について語るとき、そこには自由意志と決定論というような不毛な哲学的論争に巻き込まれてはいない。むしろ、バトラーはそういった隘路を、言説の「反復」作用を持ち出してかわそうとしている。

事実、主体が構築物だと言うとき、それは、理解可能なアイデンティティの行使を取りしきっている言説――規則に支配されている言説――の結果として、主体を見ているにすぎない。しかし主体は、主体を産出する規則によって決定されるのではない。なぜなら、意味づけは基盤を確立する行為ではなく、反復という規則化されたプロセスであるからだ。(p255)

それゆえ、解放理論ではなく、むしろ言説秩序/規範的なアイデンティティを撹乱させるような戦略が、召喚されるのである。言説による構築は、ある「行為体」を分節し、文化的に理解可能にするのに必須である。構築は決して、「自由」な「行為」と対立しない。

フェミニズムがしなければならない批判的作業は、構築されたアイデンティティの外側にフェミニズムの視点を打ち立てることではない。(…)そうではなくて批判的な作業というのは、まさにそういった構築によって可能になっている撹乱的な反復の戦略をとること――つまり、アイデンティティを構築するものでありながら、またそれゆえにその反復実践に異を唱える内在的な可能性を提示するような反復実践に、みずから参与し、それによって局所的介入をおこなう可能性を支持していくこと――なのである。(p258)

ところで、次は"Bodies That Matter"を読むつもりだが、本書でも特に「身体」は文化/自然の後者に位置するものとして、バトラーの脱構築の対象となっている。

身体の「なかにある」と考えられている内なる精神という比喩は、身体のうえに書き込まれることによって意味を与えられる(p238)

フーコーに従って、バトラーは身体を「意味づける欠如」として考える。「精神は身体の牢獄」なのであり、身体こそが、「アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れ」の場所である。身体さえもある意味で言説の構築物であるとするバトラーのラディカリズムには、どうも中々納得しにくいところもあるが、これは今後の課題としておきたい。