'10読書日記69冊目 『脱構築と公共性』梅木達郎

脱構築と公共性

脱構築と公共性

244p
総計21208p
どうやら、この本の著者、梅木さんはもうお亡くなりになられているらしい。ちょっとしたショックである。この本も前半などはふむふむと思いながら読んだ。アレントの公共性論の脱-主体中心主義的な側面を見る、というのは僕がやりたかったことでもある。デリダからアレントへ、という流れで進んでいく本書は、デリダについても非常にわかりやすく簡明に書かれている。フランス現代思想の人にしてはきわめて文体もスピードがある。読みやすい。
ただ、アレントの公共性論にしては、彼女を誉めそやしすぎかな、というところも。例えば、現代において彼女の公/私的領域の区分は夢想主義的であるという批判は、もう少しマジメに検討されるべきだろう。アレントの政治的判断力論については、僕も感じていたが、脱-主体というよりはそこでは主体が回帰し、さらには他者を再現前させるという暴力含みの面もありえる。それ以上に問題があるのは、これは本書では触れられていないが、アレントの脱-主体論にもかなりの不一致があるということである。筆者が言うように、アレントの「活動」概念が持つwhoの暴露とその我有不可能性は、確かに主体概念を脱構築するものである。人は他者の前に現れ言論・活動をおこなうことで、知らず知らずの内に自らの主体whoを他者の前に曝け出し、しかもそれは自分には徹底的に疎遠である。いわゆる活動の予測不可能性がこれである。しかし、奇妙なことにアレントの活動論は、政治思想の文脈では差異の政治学アゴニスティックな公共圏というふうに読まれることが多い。アレント自身もこう書いている。

しかし公的領域そのものであるポリスでは、(…)誰もが自分を他のあらゆる人々からつねに区別せねばならず、独自の行いや達成によって、自分が万人の中で最良のものであることを示さなければならなかった。いいかえれば公的領域は個人性のためにとっておかれていた。それは人々が、他人と置き換えられない真実の自分を示すことのできる唯一の場所であった。

このような記述には、主体が回帰してはいないか。確かに存在論レベルにまで至るような私-他者の区別がここにはある(私はここでハイデガーの「存在論的差異」のことを言っているのではない。各人の実存という点で、原初的な形式として記述される「(他者と違う)私」ということをここでは言っているつもりだ)。差異に配慮する政治学アゴーン的なデモクラシーといった文脈に応用できそうな引用ではある。だが、活動を通して実存whoの暴露がなされるものの、「私」には決してそれはコントロールできるものではないし、我有できるものでないのであれば、どうして上記のような「差異の政治学」「アゴーン」が可能になりえるのだろうか。自分が他人と異なる、ということはどのように示されるのだろうか。それは、自分の意志で「異なる」ことが可能になるのか、それとも、たとえ他人と同調していたとしてもいつのまにか他人と「異なる」ようになっているものなのだろうか。ここには深刻な問題がありそうである。