10-31

25
ゼミはお休み。カントを一生懸命読む日。
26
朝からカント読書会。アンチノミーにげっそり。3限はY先生のゼミ。こちらもカント。<啓蒙>についてもっと考えてみたい。啓蒙と自然。
27
4限I先生のゼミ。本当に尊敬できるというか、すごい研究者だと思う。熱いし。社会学者というよりは社会思想なんかもしらんけど。同級生も舌を巻いていた(そりゃそーや)。終わってから図書館でジェンダー関係の文献を渉猟。しかし、ジェンダー関係の膨大な議論と、運動家の苦労がしのばれて、僕みたいにジェンダーを茶化す人がわざわざ踏み込むべき領域ではないと痛感。バトラーを社会学でも、フェミニズムでもなくやるっていう方向はありかもしらんけど。
28-29
バイト。
30
台風接近中だが、バイト。しかし、3時間働いたところで打ち止め。給料日。ほくほく。結局台風は上陸せず。
31
くもり。昼に起きてモスへ行く。経哲草稿読み読み。ヘーゲルむずい。僕の修論はどこへいくんだろうか。疎外論-物象化論-主体、というふうにつなげたいのだが、よくわからない。マルクスを読んでもそないにテンションが上がらない。一方、アレントフーコー、バトラーはテンションが上がる。大澤真幸も上がる。では一体、テンションの上がり具合の差異はどこにあるのかといえば、後者は僕にとって、「別様なるもの the otherwise/alternative」の探求の試みに映るのかもしれないと思いついた。アレントは主体の自明性を疑う。フーコーはそもそも主体が構築されたものであること、そして主体を自ら統治する(啓蒙)ことのアクチュアリティを議論する。バトラーは、抑圧も、そして抑圧からの解放もないこと、結局アイデンティティのゲームの中で固定的なアイデンティティを脱臼させていくことを目指す。大澤真幸は、偶有性という否定的な共通性(私はあなたであったかもしれない、という偶有性においてのみ類的存在が考察し得るというような)を確証する。