'11読書日記72冊目 『カントを読む ポストモダニズム以降の批判哲学』牧野英二

カントを読む―ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波セミナーブックス)

カントを読む―ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波セミナーブックス)

335p
総計21964p
カント哲学がポストモダニズム以降の哲学においてどのような意味を持ったのか、ということを探求する本ではない。本書は、横のものを縦にするというか、カントの理論を解釈したカント以降の(ポストモダン期を含めた)思想家を紹介している。岩波の市民セミナーをもとにしているからか本格的な議論には踏み込んでいない。ただ筆者の現状認識に驚かされるというか、筆者がポストモダンを生きていないことはよく伝わってくる。

たとえば、インターネットのグローバルな規模での急速な発展の結果、バーチャルな空間での活発な商取引からバーチャル国家の出現まで見られるようになり、文字通り現実世界のリアリティーがバーチャル・リアリティーに侵食され両者の境界線が不明確になってきただけでなく、前者が後者によって支配されつつあるのが現状です。他方、最近の日本で特に深刻な問題となってきた「引きこもり」と呼ばれる社会現象もまた、他者との接触や他者の実在性の拒否・拒絶という点で「物自体」の問題との関係を否定することができません。

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このような認識をさしおいても不満は残る。筆者は、ポストモダニズムにおいてカント哲学は、普遍主義と相対主義の相克を読み込むスタンスにたつが、それはカウルバッハの「遠近法主義」(ニーチェの遠近法主義が生の肯定に向かうのに対しこちらは他者のパースペクティブの多元性を強調する)に依拠しつつ、「情感的理性の可能性」を探り共同体感覚論へと向かう。アレント判断力批判も割りに好意的に取り上げられている。だが、それゆえいっそう不満なのは、本書において「物自体」が主観の認識における「他者」であり、他者とは「物自体」であることが取り沙汰されているにもかかわらず、他者との共通的な判断力(共通感覚)が可能でもあるかに論じられていることである。他者は「物自体」ではなかったのか。「物自体」の認識や、あるいは「物自体」と「私」の共通の判断力が可能だというのなら、それはなにか重大なミスを犯していないか。このような不満は、もともと僕がアレントに対して持っていたものだが、それが本書でも解消されなくて残念だった。